信長ら武家の力に「期待」した公家の近衛前久
武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」 第90回
■室町将軍の統治力への「期待」を失った前久
1564年に三好長慶が死去すると、義輝の権威が上昇し、将軍親政の気運が高まります。
しかし、これに危機感を持った三好三人衆や松永久通(まつながひさみち)たちは、永禄の変にて義輝を殺害し、14代将軍として義栄(よしひで)の擁立を図ります。
前久は、血縁関係にもある足利義昭(よしあき)の下向には付き合わず、三好家の要請を受け入れて義栄の将軍就任を援助し、三好家による政権を認めています。
しかし、1568年に信長によって三好家が京から駆逐され、義昭が15代将軍に就任したため状況が変わりました。
前久は義輝の殺害と、義栄の将軍就任への関与を追求されます。この時、近衛家は闕所(けっしょ。財産を没収)とされ、さらに追放処分とされ、後に関白も解任されました。
前久は義昭に対抗するために、三好家や本願寺、朝倉家との関係性を深めており、これが信長包囲網へと発展したと言われています。
ただし、義昭が追放されたため、前久は信長の勧めで京に戻ります。そして、織田政権への「期待」を強めていきます。
■天下人誕生への「期待」
前久は織田政権の外交官のように、九州に下向し、毛利対策のため大友家や島津家の争いを調停しています。その後は信長から1500石の加増を受けたと言われています。
1580年には本願寺との石山合戦(いしやまかっせん)の終結のために、勅使として石山本願寺に赴くなど大きく貢献しています。1582年の甲州征伐では、武田家が朝敵であることを知らしめるために、前久も出陣しています。
しかし、同年に起きた本能寺の変で信長は死去してしまいます。訃報を知ると、前久は非常に落胆したと言われています。
その後の豊臣政権においては、長子である信尹(のぶただ)と二条昭実(にじょうあきざね)による関白職を巡る争いを解決するために、秀吉を前久の猶子(ゆうし)とし、関白就任を認める姿勢を取りました。結果的に信尹は、関白の座を秀吉に奪われるかたちとなります。
また、前久の娘は秀吉の猶子となり、後陽成(ごようぜい)天皇に入内しています。前久は不本意な面がありながらも、豊臣政権に貢献する立場を取り続けました。
家康に対しては、松平氏から徳川氏への改姓を支援し、本能寺の変への加担を疑われた際に遠江国(とおとうみのくに)浜松に匿ってもらうなどの関係性を保っていました。
関ヶ原の戦いでの行動は定かではありませんが、戦後の島津家の本領安堵の交渉にも、信尹とともに貢献したと言われています。さらに、間接的に家康の征夷大将軍の就任にも関与しており、最終的に前久は徳川幕府による統治に「期待」していたと思われます。
■不遇を招く「期待」
前久は公家でありながらも、上杉謙信の関東平定を支援するために戦場に自ら出向くなど、武士の力に「期待」し、積極的に関与する珍しい存在でした。
そのため足利家や三好家だけでなく、織田家などとの関わりも強くなり、外交官のような形で貢献していましたが、豊臣家との関係性では難しい局面を経験しました。
現代でも、組織の安定化のために、その時々の実力者に「期待」し行動した事で、苦しい状況に陥ることが多々あります。
もし、前久が「期待」し行動しなければ、織田政権や豊臣政権、徳川幕府の誕生はもっと困難だったかもしれません。
ちなみに、父の流浪に巻き込まれて育った信尹は、公家よりも武家との関わりが長かったため、武士への憧れが強かったようです。
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