政宗との対決姿勢を崩さなかった相馬義胤の「決断力」
武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」 第88回
■「決断力」で御家存続させた相馬義胤

相馬氏の居城だった相馬中村城の堀にかかる赤橋。寛永2年(1625)に、嫡子利胤が45歳で死去した義胤は、すでに隠居の身だったが利胤の跡を継ぐ虎之助がわずか6歳だったことから、後見のために中村城に移った。
平将門が軍事訓練として始め、今では東北の夏祭りの先駆けと言われる相馬野馬追(そうまのまおい)に関わりがある戦国武将というのが相馬義胤(そうまよしたね)の一般的なイメージかと思われます。
義胤は、伊達家が芦名家を滅ぼして会津地方を勢力下に置くほど強大化しても、その傘下に入る事を拒否して戦っています。その後も小田原征伐や奥州仕置、関ヶ原の戦いなど関東・東北諸侯の勢力図が大きく書き換えられる事態の中、転封や改易を逃れています。
相馬家が鎌倉時代以来の封地で幕末を迎えられたのは、義胤の「決断力」で得た成果だと思われます。
■「決断力」とは?
「決断力」とは辞書によると「複数の選択肢の中から「自分の意思で」「責任を持って」最適な一つを選び、行動に移す力のこと」とされています。
単に選ぶだけでなく、その選択の結果に対する責任を引き受ける覚悟や、選ばなかった他の選択肢を切り捨てる勇気、そして迅速に行動に移す能力などが含まれます。
一方で「判断力」は情報を評価・分析する能力であるのに対し、決断力は、その判断や根拠に基づいて「選択し、行動を決める」力です。
義胤は「決断力」で相馬家の存続に成功します。
■相馬家の事績
相馬家は平将門の子将国(まさくに)を祖とする説もありますが、桓武平氏の平忠常(ただつね)の流れを組む千葉常胤(ちばつねたね)の次男師常が、下総国相馬郡を与えられて相馬を名乗ったのが始まりとされています。
鎌倉時代に源頼朝から現在の福島県相馬郡を与えられ、1323年ごろに、相馬重胤(しげたね)が現在の南相馬市に入り国人領主化していきました。
当時の相馬家は伊達家と対立する一方で、婚姻関係を結んでいます。
義胤の祖父である顕胤(あきたね)が、政宗(まさむね)の曾祖父稙宗(たねむね)の娘を娶(めと)ったことで、稙宗と嫡子晴宗(はるむね)の対立で起きた天文の乱に稙宗派として巻き込まれています。稙宗には20人以上の息女がおり、政略結婚の一環として、嫁入りや養子入りを積極的に行っていました。
その後、稙宗が隠居し乱が沈静化したあとも、晴宗が主導する伊達家との対立は続いていきます。隠居後の稙宗が相馬家を訪れ、1560年には義胤と稙宗の娘との婚姻が成立します。
これで祖父の顕胤に加え、義胤も稙宗の娘を通じて義理の親族となりました。
しかし、稙宗の死後も伊達家中は親子対立が続き、相馬家も伊達家と領土問題で争い、この頃に義胤は妻と離縁したと言われています。
1578年には父盛胤(もりたね)の隠居に伴って義胤が家督を継承し、1581年には伊具郡(いぐぐん)館山で伊達家と戦っています。1584年に政宗が家督を継ぐと、義胤は伊達家と和睦を結んでいます。1585年の二本松城攻めでは、義胤は政宗に加勢しており、翌年の人取橋(ひととりばし)の戦いには参加していないと言われています。
義胤は、伊達家と一定の関係性を構築していたかのように思われましたが、その後長く対立していく契機となる事件が起こります。
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