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政宗との対決姿勢を崩さなかった相馬義胤の「決断力」

武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」 第88回

■伊達家への服属を拒否する「決断力」

 

 1588年に近隣の国人領主である田村清顕(きよあき)が後嗣のないままに急死すると、娘婿にあたる政宗を支持する勢力と、清顕の妻の実家の相馬家を支持する勢力で争いが起こります。

 

 この田村家の三春城の支配権に関する戦いで敗北すると、伊達家の猛攻を受けて相馬家は勢力を縮小させてしまいます。

 

 1589年に政宗は芦名家や二階堂家を滅ぼし、周辺領主を服属させ、会津地方を勢力下に収めています。

 

 伊達家に包囲される状況を見て、父盛胤は相馬家の存続のため、政宗に服従することを義胤に勧めてきました。

 

 しかし、義胤はこの提案を拒否し、徹底抗戦を主張します。伊達家が攻めてきた場合には籠城せずに、政宗本隊への突撃を計画し、有志約500名を集めたと言われています。

 

 幸運にも翌年に、豊臣政権による小田原征伐が開始され、奥羽の諸侯にも出兵が命じられました。義胤は遅参してしまったものの、石田三成の取り成しを受けて不問とされています。

 

 伊達家を含め、東北諸侯の多くが豊臣政権に従うことになり、惣無事令(そうぶじれい)により争いが禁じられた事で、相馬家は政宗の脅威から解放されることになりました。

 

■方針転換の場面でみせた「決断力」

 

 義胤は石田三成と懇意となることで、豊臣政権下での御家存続を図っていきます。そのおかげか、秀吉に供奉する事が多かったようです。

 

 しかし、1598年に秀吉が死去すると、中央政権内部での派閥争いが激化していきます。

 

 嫡子に三成の偏諱(へんき)を受けるほど関係が深かったこともあり、関ヶ原の戦いが始まると、義胤は佐竹家や岩城家とともに、中立の立場を取る事を決断します。

 

 一方で、家老水谷胤重(みずがいたねしげ)家老の進言を受け、宿敵でもある伊達軍の領内通過を許し、宿泊も許可するなど柔軟な姿勢も見せています。加えて、西軍の敗北後でしたが、兵を集めて伊達家とともに上杉領への攻撃を行わせています。

 

 ここでは大敗を喫しましたが、後にこの事実が役立つことになります。

 

 戦後、義胤は佐竹家や岩城家とともに秋田への減転封を命じられ、これを受け入れようとします。しかし、嫡子利胤が家康への赦免運動を進言すると、考えを改め、これを支援するよう行動します。

 

 運よく、本多正信(ほんだまさのぶ)との縁を得たことや、上杉領への攻撃などが認められ、相馬家は一旦改易の上で、利胤に旧領を与える形で再興されることになりました。

 

■「決断力」が危機を打開する

 

 義胤はかつて、その「決断力」をもって、相馬家の滅亡と引き換えに伊達家と徹底抗戦する事を選んでいます。

 

 しかし、関ヶ原の戦いのころには、御家存続のために、柔軟に方針転換を図るようになり、それが功を奏しました。

 

 現代でも、リーダーの優れた「決断力」が組織の成長と拡大に繋がる一方で、時に柔軟性に欠けて衰退を招いてしまう事が多々あります。

 

 もし、佐竹の減転封に従って秋田に向かっていれば、大名としての相馬家は存続していなかったかもしれません。

 

 ちなみに、諸大名の事績や由来を記した『藩翰譜』で、政宗は相馬家の再興に協力的だったと書かれていますが、実際は大反対で、相馬家を非常に警戒していたと言われています。

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森岡 健司もりおか けんじ

1972年、大阪府生まれ。中小企業の販路開拓の支援などの仕事を経て、中小企業診断士の資格を取得。現代のビジネスフレームワークを使って、戦国武将を分析する「戦国SWOT®」ブログを2019年からスタート。著書に『SWOT分析による戦国武将の成功と失敗』(ビジネス教育出版社)。

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