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邪馬台国連合、出雲王朝、吉備王国……弥生時代は「超多様性」の時代! 日本の国家形成のプロセスを追う


日本列島に「クニ」と呼ばれる組織が誕生したのはいつごろで、それはどんな経緯で現代国家につながっているのでしょうか?「クニ」とは弥生時代に徐々に形成される「国」の原型を表現しています。


 

■少しずつ形成されていく「日本」という国のカタチ

 

 縄文時代になると、血縁のある家族が規模の小さな定住集団を形成します。縄文時代は大雑把にいうと、氷河期が終わり温暖期に向かって地球環境が大きく変化した時代です。また縄文人が集落を形成して暮らした豊かな時代は、北海道、東北、中部山岳地帯が住みやすい環境だったようです。

 

 この時代の小集落はもちろんまだ「国」とはいえませんが、定住集団生活の基本はこの頃から始まったと考えてよいでしょう。青森県の三内丸山遺跡ぐらいに大きな集落になると、リーダーグループと執行グループが無くては運営ができなかったはずです。三内丸山遺跡の縄文墓に区別が見られ始めるのは、クニへの進化の予兆を示しているといえるでしょう。つまり集団生活を豊かに計画的に運営するためには特別な行政組織グループが必要になるのです。

縄文時代(土器の発明と定住の始まった時代) 
青森県出土・遮光器土偶のレプリカ。優れた造形は縄文時代の特徴。温暖だった時代は東北地方が中心だったのか?
筆者所有物/撮影:柏木宏之

 そして渡来人が住み始めた弥生時代になると大小の「クニ(邑国ゆうこく=村レベル)が形成されます。彼らはリーダーに率いられて渡来するのですから、元々組織化されたグループがほとんどです。渡来人はリーダー陣の指揮のもと、縄文人と共に日本列島に住み始めます。

 

 また、稲作を本格的に始めて貧富の差が集落間に現れると、土地争い・水争いでいくさが始まります。そのため集落は濠に囲まれ、防御施設が施される環濠集落となっていきます。各地にみられる環濠集落遺跡は吉野ヶ里遺跡のような大規模なものもあれば、小規模なものもみられます。つまり「わかれて百余国」という状態だったのでしょう。

 

 その大小いずれをも「クニ」と呼ぶのであれば、必ず「長(おさ)または王」がいたはずです。いくさや融合によって国が大きくまとめられ始めると、やがて王家が生まれて掟がつくられ、しっかりした行政執行組織が誕生します。

 

 しかも弥生時代は金属器の普及で、農耕用具、武器、生活用品にいたるまで大きな技術革新があった時代です。渡来人も頻繁にやってきますので、大陸や半島の政治情勢にも大きく左右される時代になったといえるでしょう。

 

 そんな時代に小さな国が単独で生き残るのには無理もあり、また血縁関係を広げる必要もあり、より有利な大型で強力な組織へと融合や連合が成されます。それが邪馬台国連合や出雲王朝、吉備王国などであり、ついには大和王権に糾合されたと考えてよいでしょう。弥生時代後半の日本列島には無数に「クニ」があったのです。

 

 それらは同一ではなく、民族や文化・宗教や価値観・習俗などが国の数ほどあった、超多様性を示した時代だったでしょう。

 

 そんなクニが統合される過程で、神そのものや祭祀方法も大きく変化したのではなかったでしょうか。島根県の荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡がそういう経緯を物語っているといえます。要するに、統一された文化を持つ「日本人」などと呼べる人たちはどこにもいなかったという事です。

弥生時代(渡来人が稲作耕作や金属器文化を持ちこんで大きく社会が変化した時代)
佐賀県・吉野ヶ里遺跡。広大な弥生遺跡で、当時の「国」の風景を感じさせられる高楼や竪穴式住居群が再現されている。
撮影:柏木宏之

 その後、前方後円墳の広がりから大和王権が強大化する姿が見えますが、それは政治的には独立性も併せ持った緩やかな連合体であったようです。

 

 私はこの状態を「USY(=United States of Yamato)」だったと考えています。その状態は広く観れば幕末まで続いていますし、漸く領土と国民が確定される明治時代になって初めてわが国は統一国家となったと言えます。

 

 現代の国家条件は「主権・領土・国民」がちゃんとあるかどうかですが、古代の国際常識では、国家には「王・行政組織・法」が無くてはならず、さらに「国家の歴史書」が無くては対等国とみなされなかったと考えられています。その条件を満たすために、奈良時代のはじめに『古事記・日本書紀』が完成します。特に正史第1号の『日本書紀』は、当時の国際共通語ともいえる漢文で書かれています。

 

 おそらく厩戸皇子と蘇我馬子が編纂したといわれる『国記・天皇記』も、遣隋使を始めた時代に必須の条件を満たすためのものだったのでしょう。乙巳の変で焼失してしまったこの両書の断片でも見てみたいと思いますが、鎌足らにとっては両書の焚書も目的の一つだったのかと感じるのは私だけでしょうか?

奈良時代(ついに国家と呼べる姿に成長し、本格的な国際デビューを果たした時代)
大阪府・住吉大社の遣唐使碑。風と海流、天測を頼りに大海原へ漕ぎだした勇気は大変なもの。
撮影:柏木宏之 海の神である住吉大社(昔は住之江の神と呼んだ)に海路の安全を祈った

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柏木 宏之(かしわぎ ひろゆき)
柏木 宏之かしわぎ ひろゆき

1958年生まれ。関西外国語大学スペイン語学科卒業。1983年から2023年まで放送アナウンサー、ニュース、演芸、バラエティ、情報、ワイドショー、ラジオパーソナリティ、歴史番組を数多く担当。現在はフリーアナウンサーと同時に武庫川学院文学部非常勤講師を務め、社会人歴史研究会「まほろば総研」を主宰。2010年、奈良大学通信教育部文化財歴史学科卒業学芸員資格取得。専門分野は古代史。歴史物語を執筆中。

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