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徳川吉宗が頼りにしていた「被差別民」のリーダー・弾左衛門とは? 非人や芸人(物乞い)を支配

炎上とスキャンダルの歴史


江戸時代、穢多や非人といった被差別民を配下に置き、監督していた矢野弾左衛門(世襲制の穢多頭)。弾左衛門が穢多だけではなく非人も支配下に置くようになったのは、徳川幕府の8代将軍・吉宗の時代からだった。なぜ、吉宗は弾左衛門の支配権を広げたのだろうか? 被差別民の支配構造とともに見ていこう。


 

■非人たちのトップのさらに上に、弾左衛門が君臨

 

 江戸時代における主な「被差別民」とは、「穢多(えた)」と「非人」と呼ばれる人々でした。そして関東一円の「被差別民」たちを配下に置き、監督することを幕府から命じられていた「穢多頭(えたがしら)」を務めたのが、浅草新町の矢野弾左衛門(やの・だんざえもん)だったのです。

 

 ただし、弾左衛門が非人も直接支配していたわけではありません。たとえば江戸浅草あたりの非人たちは車善七(くるま・ぜんしち)という「非人頭(ひにんがしら)」の配下に置かれ、その采配で物乞いをする権利を得ていたのです。

 

 車善七以外にも各地には非人頭が存在しており、彼らのさらに上位に君臨するのが矢野弾左衛門というのが「被差別民」の支配の構図です。

 

■大道芸人も「物乞い」の一種として、弾左衛門の支配下にあった

 

 また、浅草・浅草寺には江戸時代にも多くの「乞胸(ごうむね/ごうみね)」、もしくは「合棟」とも表記された大道芸人たちがいて、踊りや綱渡り、蛇使いといった「芸」を見せる対価に見物客から小銭を集めていました。

 

 古い時代には浄瑠璃などの芸能者も含まれていたといいますね。彼ら「乞胸」たちの身分は正確には非人ではない一般人――当時の言葉でいう「平人」で、その元締めは浅草菊屋橋に住む仁太夫(にだゆう)という人物でした。

 

 芸人たちの多くは両国や下谷の長屋に集住させられ、その点でも非人たちが暮らした吉原遊郭裏手などにもあった「非人小屋」「乞食村」とは区別されていたのですが、江戸時代においてこれらの大道芸人は物乞いの一種という認識でした。

 

 つまり大道芸人たちの元締めである浅草菊屋橋の仁太夫も、物乞いの元締めである車善七同様に、浅草新町の穢多頭・矢野弾左衛門に上納金を収めねばならない立場とされていたのです。

 

■大飢饉でコントロールができなくなり、弾左衛門に頼ることに

 

 矢野弾左衛門が穢多だけでなく、非人までも支配できることになったのは、西暦18世紀初頭、8代将軍・徳川吉宗の時代でした。

 

 この時代の弾左衛門がなぜ非人たちだけでなく、非人の身分ではない大道芸人たちまで傘下に置くことになったのかといえば、完全に幕府のコントロール外にいってしまった「野非人(のびにん)」と呼ばれる人々による犯罪が目立つようになったことがあげられます。

 

 とくに吉宗の治世後期にあたる享保17年(1732年)は悪天候が続き、「享保の大飢饉」となりました。食っていけない農民たちが江戸市中に流入、打ち壊しなどの犯罪を繰り返すようになりました。

 

 もはや幕府の威光だけではなんともならず、下層民のことは下層民の手でしっかり管理させねば社会秩序が保てなくなってきていたのです。幕府は「穢多頭」などと呼んで蔑んでいた矢野弾左衛門の統率力を、影では評価し、見込んでいたといえるでしょう。

 

えた(『和漢三才図会』国立国会図書館)

画像出典:寺島良安 編『和漢三才図会』第1冊,内藤温故堂,明34. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/898187 (参照 2025-04-01)

 

 

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堀江宏樹ほりえひろき

作家・歴史エッセイスト。日本文藝家協会正会員。早稲田大学第一文学部フランス文学科卒業。 日本・世界を問わず歴史のおもしろさを拾い上げる作風で幅広いファン層をもつ。最新刊は『日本史 不適切にもほどがある話』(三笠書房)、近著に『偉人の年収』(イースト・プレス)、『本当は怖い江戸徳川史』(三笠書房)、『こじらせ文学史』(ABCアーク)、原案・監修のマンガに『ラ・マキユーズ ~ヴェルサイユの化粧師~』 (KADOKAWA)など。

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