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レシプロ・エンジンとジェット・エンジンの過渡期に咲いたあだ花【ライアンFRファイアボール】

ジェットの魁~第1世代ジェット戦闘機の足跡~ 【第9回】


ジェット・エンジンの研究と開発は1930年代初頭から本格化し、1940年代半ばの第二次世界大戦末期には、「第1世代」と称されるジェット戦闘機が実戦に参加していた。この世代のジェット戦闘機の簡単な定義は「1950年代までに開発された亜音速の機体」。本シリーズでは、ジェット戦闘機の魁となったこれらの機体を俯瞰(ふかん)してゆく。


        レシプロ・エンジンを止めてジェット・エンジンだけで飛行中のライアンFRファイアボール。プロペラは抵抗を減らすためフェザリングにされている。この角度からだと機尾のジェット排気口は視認できず主翼付根の空気取入口も見えにくいため、単なるプロペラ機のようだ。

         アメリカにおける第2次世界大戦中のジェット機の開発は、国内の技術に加えて同盟国で「ジェット機先進国」でもあるイギリスからの移入技術などによって進められた。

         

         だが、「デモクラシーの兵器工場」として世界中の同盟国に武器を供与していたアメリカは、戦争遂行のためにまずは既存の航空機の量産と改良に力を注ぐ必要があったことから、第一線機の量産に携わっている大手航空機メーカーだけでなく、量産機を持たない中堅航空機メーカーにも、ジェット機の開発を依頼していた。

         

         そのような状況下、アメリカ海軍もジェット機に興味を示していたが、初期のジェット・エンジンは信頼性の低さとレスポンスの悪さにより、ウェーブ・オフ(着艦復航)が難しく艦上機用動力としては不向きだった。おまけに長距離洋上飛行が求められる艦上機にとっては重要な燃費も悪かったが、ジェット・エンジンの将来性には見込みがあった。

         

         そこで海軍航空の実力者で、後に空母機動部隊を率いて日本軍を痛撃することになるジョンS.マケイン提督は、それまでのレシプロ・エンジンに加えてジェット・エンジンも搭載する混合動力機を提案。ちなみに2008年のアメリカ大統領選挙でバラク・オバマ氏に敗れた共和党のジョン・マケイン三世候補は、彼の孫にあたる。

         

         1943年2月、ライアン・エアロノーティカル社で混合動力艦上戦闘機FRファイアボールの開発が始まり、1944年6月25日にレシプロ・エンジンを使った初飛行に成功した。本機に搭載されたレシプロ・エンジンはライトR-1820サイクロン9空冷星型で、かのB-17やSBDドーントレス、C-47スカイトレインなどにも用いられている、信頼性の高い傑作エンジンだった。

         

         一方、ジェット・エンジンはベルP-59エアラコメットにも搭載されたゼネラルエレクトリックJ-31だった。その排気口は機尾にあり、空気取入口は左右の主翼の付根とされて、降着装置は前輪式であった。

         

         結局、ファイアボールは1100機を受注したが、1945年11月までに66機が完成しただけで残りはキャンセルされた。戦中に1個飛行中隊が編成されたものの、実戦には参加しなかった。

         

         ファイアボールは当初から護衛空母のような小型の空母での運用が考えられていたが、短い運用実績にもかかわらず、事故が頻発して機体全体の強度不足が判明。1947年8月に全機が退役した。混合動力とはいえ、アメリカ海軍で初めてジェット・エンジンを搭載した実用機であり、まさにレシプロ・エンジンとジェット・エンジンの過渡期に咲いたあだ花といえよう。

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        過去記事

        白石 光しらいし ひかる

        1969年、東京都生まれ。戦車、航空機、艦船などの兵器をはじめ、戦術、作戦に関する造詣も深い。主な著書に『図解マスター・戦車』(学研パブリック)、『真珠湾奇襲1941.12.8』(大日本絵画)など。

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