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デビューは高高度高速偵察機として、のちに奇襲爆撃機的な運用【アラドAr234ブリッツ】

ジェットの魁~第1世代ジェット戦闘機の足跡~ 【第4回】


ジェット・エンジンの研究と開発は1930年代初頭から本格化し、1940年代半ばの第二次世界大戦末期には、「第1世代」と称されるジェット戦闘機が実戦に参加していた。この世代のジェット戦闘機の簡単な定義は「1950年代までに開発された亜音速の機体」。本シリーズでは、ジェット戦闘機の魁となったこれらの機体を俯瞰(ふかん)してゆく。


        終戦後、アメリカ軍に鹵獲されてテストに供されるアラドAr234ブリッツ。

         ヒトラー政権下のドイツは、近隣諸国への政治的あるいは武力的な侵攻を念頭において、ドイツ国境線ぎりぎりから状況によっては越境のうえで、偵察飛行を頻繁におこなった。というのも、相手国の状況をリアルタイムで知るには、当時も今も偵察飛行はきわめて有意義だからだ。

         

         まだレーダー技術が進んでいなかった時代のこと、このように重要な偵察飛行をおこなうには、敵に発見されにくく、もし発見されても、戦闘機による迎撃や追従が困難な高高度を高速で飛行できる偵察機が不可欠だった。

         

         ドイツ空軍は、高高度性能に優れたユンカースJu86を偵察機として採用したが、レシプロ機なので同じレシプロの高高度飛行が可能な戦闘機には弱かった。そこでドイツ航空省は1940年後半、当時最新だったジェット・エンジンを搭載する双発の高高度偵察機を求めたが、ちょうどアラド社がこれに該当する機体の開発を進めていた。

         

         Ar234ブリッツ(ドイツ語で「稲妻」の意)と命名された本機の設計や機体の開発は順調で、1941年から1942年にかけてほぼ仕上がりを示していた。ところが肝心のジェット・エンジンの開発が大きく遅れ、1943年6月15日になって、やっと初飛行がおこなわれた。

         

         だが、初期のジェット機の常でエンジンの不具合やメンテナンス寿命の短さの改善が難しく、偵察型が実戦に初参加したのは1944年8月のこと。すでにフランスのノルマンディーに連合軍が上陸してパリを目前にしていたこの時期、Ar234はイギリス本土上空に侵入して高高度偵察を実施した。その結果、当時のイギリスのレシプロ戦闘機では迎撃が著しく困難であることが判明する。

         

         だがこの成果が得られる前の時点で、Ar234の爆撃機型の開発が開始されていた。しかし当初は偵察機として設計された機体だったため、機内に爆弾を搭載するスペースは確保できず、胴体下面かエンジン・ナセルの下に懸吊する方法で、最大1500kgの搭載が可能とされた。ところがこの搭載方法では空気抵抗が大きくなり、爆装時は著しい速度低下を招いたうえ、1500kgでは、爆撃機としては爆弾搭載量が少なすぎた。

         

         だがブリッツという愛称のごとく、レシプロ爆撃機よりはやや高速での爆撃目標への飛行が可能で、爆弾投下後は高速で帰還できたため、奇襲爆撃機的な運用がなされている。

         

         結局、Ar234は224機(異説あり)が生産され、これらの機体が実戦に投入されたにとどまった。

         

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        過去記事

        白石 光しらいし ひかる

        1969年、東京都生まれ。戦車、航空機、艦船などの兵器をはじめ、戦術、作戦に関する造詣も深い。主な著書に『図解マスター・戦車』(学研パブリック)、『真珠湾奇襲1941.12.8』(大日本絵画)など。

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