大阪万博後の不安定な世情に合致した『日本沈没』 戦争の記憶を色濃く残した、社会へのアンチテーゼ【昭和の映画史】
■混沌に陥る社会情勢を背景に原作が大ヒット
昭和48年(1973年)に公開された『日本沈没』は、言ってみればB級パニック映画で、映画通からはずっと無視されてきた。しかし実際には大ヒットした上に、アメリカでもそこそこヒットしたのである。
さらに2006年には草彅剛主演でリメークされ、やはり大ヒット。日本のみならずアジア各国で公開された。2021年には小栗旬主演でドラマ化され、TBSの日曜劇場枠で放映されている。その他にもラジオドラマ、テレビアニメ、ウェブアニメにもなっている。
どうして『日本沈没』は繰り返し映像化されて、生き続けてきたのか。そもそも原作が大ベストセラーだったのだ。内容が時機にかなっていたのである。この小説が発表された昭和48年は、日本社会に不安が広がった年である。
国が威信を賭けた大阪万博が終わってみると、残ったのは狂乱物価と呼ばれたインフレーション。そこに、第4次中東戦争に端を発したオイルショックが襲ってきた。安い中東原油の安定供給に支えられてきた高度経済成長が、いきなり止まったのである。そういう不安な世相に原作も映画も合致した。
そもそもパニック映画は作りやすいし、友人や家族と観るのにも手頃だ。ヒットを狙いやすいのである。しかし改めてこの映画を見直してみると、勝因はそれだけではないことがわかる。一つは、国と国民を守るために奮闘する、科学者や政治家の姿である。
物語は小笠原諸島の近くにある島が、一夜にして海底に沈んだことから始まる。直ちに地球物理学者の田所博士が現地調査に赴き、深海調査船「わだつみ号」に乗って日本海溝に到達する。そこには不可解な亀裂があり、泥が流れていた。
同じ頃、伊豆半島で地震が起きたこともあり、山本首相以下、内閣が地震学者を招いて懇談会が開かれる。そこに招かれた田所博士は、日本海溝で見た様子を話し、日本列島が沈んで消滅する可能性を口にする。しかし誰も本気にせず、失笑するばかりだった。
だが政財界黒幕の渡が、田所の主張に関心を抱く。渡は最近、地震が多いことが気になっていたのだ。そこで首相を呼び、密かにD計画を立ち上げる。D計画とは今後起こりうる事態について調査研究、予測する極秘プロジェクトである。
発足時は田所博士のほか、情報工学や海洋地質学の研究者、深海調査船「わだつみ」の操作技術者など少数だった。その後、最悪の事態が避けられない場合の国外退避についての計画が加わり、国家プロジェクトになるのである。「皇室はやはりスイスに移すべきか」という生々しい話も出てくる。
エリートが必死に救国の道を探る姿は感動的だ。こうして努力が続けられる間も、地震や噴火が次々に起こる。このあたりの描写は、今から見ると少し緩慢である。考えたらもう半世紀以上前の映画だから仕方ない。
敗戦から30年経った頃である。地震や噴火、逃げ惑う人々の様子にはまだ空襲の影響が残っている。この時代はまだ、戦争体験世代が社会の中核に残っていた。
評論家の川本三郎は『今ひとたびの戦後映画』の中で、昭和29年(1954年)に製作された『ゴジラ』を「戦争映画である」と述べた。だから初代のゴジラ映画は驚くほど暗く、銀座を逃げ惑う人々の姿は空襲下を思わせると。
川本はゴジラを、太平洋戦争で南方の海に沈んだ日本兵たちの象徴と捉える。ゴジラは悲しみと苦痛で歪んだ顔を持ち、東京を破壊し続けていくが、皇居だけは破壊できない。そして再び南の海へ戻っていくのである。
『ゴジラ』は公開時、批評家に「あまりにも暗くて楽しめない」と言われた。娯楽映画なのに、結果として死者たちへの鎮魂歌にもなっているからだ。それは、この時代のスタッフや出演者の人生に染み込んだ、苦い記憶の成せる技だったのではないか。
川本は海に沈む科学者の姿に、日本がかつての敵国と無二の関係を結んで明るい戦後復興に乗り出していく中、それについていけない人々の姿を重ねる。そして無謀な作戦によって切り捨てられ、忘れられようとしている戦没者の無念をゴジラに仮託し、「俺たちを忘れるな」というメッセージを受け取るのである。
『今ひとたびの戦後映画』は昭和の名作について、著者独特の解釈で切り込んでいる。あくまで川本の見方だが、「未亡人」「復員兵」「白いブラウスを着た女の先生」などの切り口で、他に類を見ない見方をしている。原節子の引退理由についても興味深い解釈をしており、一読して損はない。
『日本沈没』製作陣に残る戦争の記憶は、深海調査船の名前が「わだつみ」であることにも現れている。戦没学徒兵の手記を集めた戦後のベストセラー『きけ、わだつみの声』を意識しているのは明らかだ。
映画では後半、日本列島はついに沈没を始め、海外避難を模索するD2計画が実行されることになる。日本人は船や飛行機で次々に脱出していく。しかし、1億1千万の国民を海外に移住させることは容易ではない。
国連も日本救済委員会を設置する。日本人はもはや難民なのである。しかし、どの国も受け入れには限界があると躊躇する。「移住者が増えると国内から不安の声が出るし、治安も悪化する」と言うのだ。
日本人がこういうことを言われるなんて! これからクルド人やパレスチナ人のように、国を持たずにさまようことになるのか。半世紀前にこういう設定をした想像力に、驚きを禁じ得ない。
小松はその後、世界に離散した日本人の運命を描く第二部を執筆する予定だった。しかし、日本人のアイデンティティをどう描くか迷い、結論が出ずに断念したと言われている。
この映画が忘れ去られなかった理由の一つは、原作者である小松左京の再評価がある。阪神淡路大震災で、理論上は倒れるはずがない高速道路が崩れたことに、日本人は驚いた。小松も衝撃を受け、精力的に取材を進めて新聞に連載を始めた。
そして、高名な地震研究者に共同研究を申し入れたのである。しかし、その返事は小松を落胆させた。「地震が想定を超えたものであっただけで、私たちに責任はない」もともと連載執筆の心労が重なっていた小松は、この返事を聞いて精神のバランスを崩し、うつ状態になってしまったのである。
そして東日本大震災で、再び起こるはずがない事故が起きた。小松は死の2ヶ月前、遺言とも言えるメッセージを遺している。「唯一の被爆国の国民であり、SF作家になった人間として言いたい。事実の検証と想像力をフル稼働させて、次の世代の文明に新たなメッセージを与えるような、想像力を発揮してもらいたい」
日本は今、象徴的な意味で、本当に沈没しかかっているのかもしれない。円安日本から脱出する人間も出始めた。縮小の時代を生きる我らは、先人の問題提起に応え、今こそ知恵を結集して二度目の国作りに取り組みたいものだ。

イメージ/イラストAC