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【東京23区城跡めぐり】高級住宅街に広大な城跡が眠る!? 名門・吉良氏の世田谷城


招き猫発祥の地として人気の高い豪徳寺。井伊家の菩提寺は、かつてこの地を治めていた吉良家が築いた世田谷城の一部だった。


 

 東京都世田谷区豪徳寺というと皆さんはどんなイメージを持つだろうか? 招き猫発祥の地? 歴史にくわしい人にとっては桜田門外の変で暗殺された井伊直弼の墓所? それとも芸能人をはじめお金持ちが住んでいる高級住宅地? 実は、ここにかつて城があったのだ。それが世田谷城である。

 

 城といっても、天守や櫓、立派な城門などがある姫路城のような近世城郭ではない。土塁や堀などで守を固めた土造りの中世城郭と呼ばれる城だ。2両編成の世田谷線にゴトゴト乗って宮の坂で降り、しばらく行くと井伊家の菩提寺だった招き猫発祥の地豪徳寺に着く。ここが東京23区内なのかと思うほど広大な敷地を誇る豪徳寺は、近頃外国人観光客も増え、賑やかである。

 

 同寺は、世田谷城内に設けられた弘徳院という寺院を母体としているという。近年行われた弘徳院の推定範囲での発掘調査では、空堀や土塁、掘立柱建物、井戸跡などが発見された。ここから、世田谷城がかなりの規模の城であったことが推測できる。

 

 観光客たちの喧噪を背に南に向かって歩くと突然、閑静な住宅街の中に石垣が現れる。世田谷城址公園だ。石垣は後世世田谷城址公園として整備した時に造られた。この城址公園となっている部分は世田谷城の南端だけ。他の部分の多くは都会の住宅街になってしまったのだが、土塁や空堀が現存している。ただし、民家の敷地になってしまっているところもあるので見学の時には注意が必要だ。

 

 世田谷城は、貞治5年(1366)に吉良治家によって築かれたといわれているが、本当のところはわからない。しかし、鎌倉の鶴岡八幡宮に伝われる文書によって、世田谷の地が永和2年(1376)には吉良氏の所領になっていたことがわかっている。吉良氏は室町幕府を起した足利尊氏に繫がる名門だったので、前政権があった鎌倉に近い地を任されたのかもしれない。ちなみに、赤穂事件で有名な吉良上野介も先祖を同じくする。名門だから儀礼などを司る高家という徳川幕府の地位に就いた。それゆえ虚構の世界では、えらそうな態度で浅野内匠頭をいじめぬくヒールとして登場するのだろう。

 

 治家から数えて6代目の成高は、築城術に優れ江戸城や川越城などを築いたことで有名な太田道灌とともに江戸城で戦ったという。この成高の子の頼康は、当時関東で勢力を伸ばしてきた小田原北条氏の娘と結婚。この時世田谷の吉良氏は全盛期を迎え、宮坂八幡宮(現世田谷八幡宮)を創建、満願寺などを復興した。その氏朝もやはり北条氏の娘を娶る。氏朝の時に北条氏政の名前で行われるようになった楽市が、現在世田谷の風物詩として有名なボロ市の起源となった。小田原北条と2代にわたって婚姻関係を結んだため天正18年(1590)に行われた豊臣秀吉の小田原攻めでは北条方についた。しかし、氏朝は戦わずに上総国千葉郡生実(現千葉県千葉市)に身を隠した。小田原攻めの後領地に戻り隠居生活を送ったという。

 

 この戦いの軍功により徳川家康は、関東に入る。そのため世田谷城は廃城となった。しかし、家康は名門吉良を惜しみ氏朝の子頼久に上総国に領地を与え旗本蒔田家として存続を許したのである。

 

 ところで、前述した吉良上野介であるが、赤穂事件の後、この家は断絶。代わって、頼久の子孫が吉良を名乗り高家として徳川幕府に仕えた。

世田谷城
世田谷城の南端は閑静な住宅街の一角にあるオアシス的な空間世田谷区立世田谷城址公園となっている。石垣や土塁は公園になる時に整備させたという。

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過去記事

加唐 亜紀

1966年、東京都出身。編集プロダクションなどを経てフリーの編集者兼ライター。日本銃砲史学会会員。著書に『ビジュアルワイド図解 古事記・日本書紀』西東社、『ビジュアルワイド図解 日本の合戦』西東社、『新幹線から見える日本の名城』ウェッジなどがある。

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