台湾に鉄道を敷設した男たち─海外にも延伸した鉄道網─【鉄道と戦争の歴史】
鉄道と戦争の歴史─産業革命の産物は最新兵器となった─【第3回】
日清戦争を体験したことで、政府は戦時における鉄道の重要性を再認識。そこで「鉄道敷設法」に基づいて国内鉄道網の整備計画を作成する。さらに初めて獲得した海外領土である台湾にも、近代的な鉄道の敷設を進めた。

基隆と高雄の間を最速8時間で結んだ急行列車。当時は夜行列車も運行していた。台湾の近代化は日本の富国強兵策を推進するためにも不可欠なことであった。
『古写真が語る 台湾 日本統治時代の50年』より
近代戦では兵站(へいたん)の優劣が、勝敗を分けるということを学んだ日本は、より一層鉄道網の整備に力を注いだ。政府や陸軍が恐れていたのはロシアの存在だ。日清戦争に勝利し、下関講和条約で「遼東半島の割譲」という条件を手にしたが、ロシア帝国が主導した三国干渉により、遼東半島を清国に返還することになる。しかもロシアは、清国から遼東半島先端部の租借権を獲得。それは日本からすれば、首元に匕首を突きつけられたようなものだ。日本政府は「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」を合言葉に、民衆の不満をロシアへの敵愾心(てきがいしん)に転嫁していった。
その下関条約では、日本が台湾を領有することが認められることとなった。それに基づき明治28年(1895)6月17日には台湾総督府が設置される。台湾ではそれまで、清国の初代台湾総督の劉銘傳(りゅうめいでん)が全台鉄路商務総局鉄道を運営していた。日本はこれを接収し、陸軍が軍事物資の運搬に活用することにした。
だが鉄道としては低規格で、とてもそのまま使用し続けることはできなかった。初代台湾総督樺山資紀(かばやますけのり)は、「内外の防禦」に備えるために近代的な鉄道建設を構想。それは台北、台中、台南を経て高雄に至る縦貫鉄道で、その建設を日本政府に要望した。

清国が統治していた時代の台北駅。清国により建設された鉄道は、重量のある機関車の運用に耐えられず、開業するとすぐに轢死事件を起こすなど問題点が多かった。
明治31年(1898)、児玉源太郎(こだまげんたろう)中将は第4代総督に就任すると、補佐役として後藤新平(ごとうしんぺい)を民政局長に任命。後藤は安政4年(1857)に仙台藩留守家家臣・後藤実崇(さねたか)の長男として生まれた。胆沢県大参事であった安場保和(やすばやすかず)に見出され、わずか13歳で書生として引き立てられ、胆沢県庁に勤務。そして内務省衛生局員時代の上司だった陸軍の石黒忠悳(ただのり)が、後藤を児玉に推薦。こうして後藤と台湾、さらには鉄道との縁が生まれたのである。

つねに壮大な計画をたてることから「大風呂敷」と渾名された後藤新平。植民地経営者として卓越した手腕を発揮している。台湾の発展や満鉄総裁として日本の大陸進出を手助けするなど、その功績は計り知れない。
国会図書館蔵
後藤は台湾で進められていた南北縦貫鉄道の建設は、民間会社で完遂するのは不可能と判断。そこで「台湾事業公債法」を発布し、鉄道敷設のための公債を募集するとともに、鉄道国有計画として確定した。そして基隆〜新竹間の既存線の改良工事と、新竹〜高雄間の建設工事に着手したのである。
工事は明治32年(1899)、臨時台湾鉄道敷設部技師長に任命された、長谷川勤介(きんすけ)が一切をとり仕切った。後年「台湾鉄道の父」と呼ばれた長谷川は、悪疫や天候不順、資材運搬の困難といったさまざまな苦労を克服。
そして明治41年(1909)には基隆〜高雄間の404.2kmを無事に全通させた。この鉄道は、台湾の発展に大きく寄与することとなる。それは同時に、日本の国力向上にもつながった。

日清戦争終結後、下関条約により清国から割譲した台湾を統治するために置かれた日本の出先官庁。台北市に置かれた。現在も建物は健在で、中華民国総統府となっている。
長谷川は縦貫線の完成とともに辞任し、後には鉄道院副総裁を務めるなど、国内の鉄道整備にも尽力している。一方後藤は、明治39年(1906)に初代満鉄総裁に就任。鉄道を通じた日本の海外進出の一翼を担っている。

長州出身の鉄道官僚・技術者として活躍した長谷川勤介。最初に鉄道寮に出仕、後に工部省技手となるが、官を辞して日本鉄道の技師に転じた。1899年に台湾の鉄道建設の責任者となり、縦貫線を完成へと導いた。