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長寿を保ち道長や子女の行く末を見守った源倫子

紫式部と藤原道長をめぐる人々㉓


6月9日(日)放送の『光る君へ』第23回「雪の舞うころ」では、宋人にまつわる越前の不穏な空気が描かれた。そんななか、まひろ(のちの紫式部/むらさきしきぶ/吉高由里子)に思いがけない転機が訪れようとしていた。


宋人をめぐって渦巻くそれぞれの思惑

藤原道長の邸宅・土御門邸の跡地(京都府京都市)。源倫子の実家が所有する邸宅のひとつで、結婚後、道長が移り住んだ。最高権力者となった道長が、3人の娘が天皇の中宮となった日に、かの「望月の歌」を詠んでいるが、それはこの邸宅で行われた宴席で披露された。

 現場に居合わせた者の証言により、朱仁聡(ヂュレンツォン/浩歌)の殺害容疑の疑いは晴れた。解放を命じた国守の藤原為時(ふじわらのためとき/岸谷五朗)に恩義を感じた朱は、宋人が来日した真の狙いを打ち明ける。為時は、朱を陥れようとした越前の役人である源光雅(みなもとのみつまさ/玉置孝匡)からも話を聞き、宋人をめぐる問題が思いのほか複雑な様相を呈していることを思い知らされる。

 

 一方、まひろは日本生まれだったことが分かった薬師・周明(ヂョウミン/松下洸平)に宋の言葉を教わり始める。みるみるうちに宋の言葉を身につけていくまひろに、周は舌を巻いた。

 

 都では、藤原定子(さだこ/ていし/高畑充希)の出産の日が近づいていた。いまだ一条天皇(塩野瑛久)は定子を忘れられず、他の女御に会おうともしない。そこで源倫子(ともこ/りんし/黒木華)は、自邸の土御門邸で一条天皇と女御とを引き合わす会を思いつき、夫・藤原道長(みちなが/柄本佑)に提案。開催にこぎつけたが、一条天皇は定子への思いをますます募らせるだけだった。

 

 そんなある日、都から藤原宣孝(のぶたか/佐々木蔵之介)が越前に訪ねてくる。為時が巡察に出ていたため、まひろが饗応役(きょうおうやく)を務めた。2日間にわたって滞在した宣孝は帰り際に、都に戻って妻となるよう、まひろに何の前触れもなく告げたのだった。

 

■夫や娘を支えるため活発に行動した倫子

 

 源倫子は、宇多天皇の孫で従一位左大臣の源雅信(まさのぶ)の娘として964(康保元)年に生まれた。母は中納言・藤原朝忠の娘である藤原穆子(むつこ/ぼくし)。

 

 倫子が藤原道長と結婚したのは987(永延元)年のことで、当時、道長は22歳で、倫子は24歳。今でいう年上女房だった。

 

 もっとも、父の雅信は天皇のひ孫である娘と、いまだ公卿にすらなれない、はるか格下の道長とでは釣り合わないと考え、ふたりの結婚に猛反対した。いわく「口わき黄ばみたるぬし(経験に乏しい青二才)」(『栄花物語』)と突き放し、とにかく道長からの求婚に取り合わなかったらしい。

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過去記事

小野 雅彦おの まさひこ

秋田県出身。戦国時代や幕末など、日本史にまつわる記事を中心に雑誌やムックなどで執筆。近著に『「最弱」徳川家臣団の天下取り』(エムディエヌコーポレーション/矢部健太郎監修/2023)、執筆協力『歴史人物名鑑 徳川家康と最強の家臣団』(東京ニュース通信社/2022)などがある。

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