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「光源氏」のモデル・藤原道長はプレイボーイだったのか? 女性関係は自重していた?

日本史あやしい話45


大河ドラマ「光る君へ」で注目を集める源氏物語、その主役は、多くの女性たちを虜にして浮名を流したイケメン貴公子・光源氏である。藤原道長もそのモデルのひとりと言われるが、どういった点が共通していたのだろうか? また、道長も光源氏のようなプレイボーイだったのだろうか?


 

■イケメン貴公子・光源氏のモデルとは?

 

藤原道長(菊池容斎 『前賢故実』

 かの紫式部が著した『源氏物語』、その主人公といえば、いうまでもなく光源氏なる貴公子である。「光り輝くような美しさ」との意を込めて命名されたというから、究極の美男子、つまりイケメンというべきか。

 

 宮廷内の女性たちをも虜にしたと言われるこの物語、その人気の一端が、実はこの貴公子をイケメンとして設定したところにあったことは間違いない。悔しいけれど、世の女性は皆、イケメン好きだからである。

 

 ともあれ、話を進めよう。著者の紫式部が、果たしてどのような思いでこの主人公を思い描いたのかはわからない。それでも、彼女がイケメン好きだったことだけは確かなようだ。20代半ば過ぎ(諸説あり)という、当時としてはかなり遅かりし年齢になってから、藤原宣孝という受領階級(山城守)の男性と結婚しているが、この御仁も実はお洒落なプレイボーイ。紫式部の他に何人もの女性と結ばれているから、それなりのイケメンだっただろう。

 

 父の同僚で、紫式部とは親子ほども歳が離れていたとはいえ、チョイ悪おやじの色気で紫式部を虜に。中〜下級貴族とあって少々貴公子ぶりは劣るものの、そこは男の色気でカバーしたのだろう。

 

 その求婚者を受け入れた紫式部といえば、世間ではとかく堅物っぽく語られることが多いが、とんでもない! 実は、結構な「男好き」だったと筆者は睨んでいる。それがゆえに、色気ムンムンの光源氏誕生につながったと思えてならないのだ。

 

 本題に移ろう。今回の問題にしたいのは、「光源氏のモデルが誰だったのか?」という点である。全くのゼロから光源氏像を編み出すのは至難の技である。むしろ、実在の人物を思い浮かべながら、光源氏という理想の男性像に投影していったと見なす方が自然だろう。

 

 では、彼女が思い浮かべた実在の人物とは誰か? 真っ先に思い浮かぶのが、前述した紫式部の夫・宣孝である。「女好き」という点ではよく似通っている。ただ残念なことに、貴公子だったかという点では、前述したように疑問が残りそう。

 

 受領階級というから、位階はせいぜい五位止まり。父の位階と似たり寄ったりとなれば、憧れるほどのことはない。他の共通点もさほど見出せないので、彼が光源氏のモデルだったとの説は、どうやらハズレといえそうだ。

 

 その他の、よく取りざたされるところの名を上げてみよう。藤原摂関家の嫡流として栄華を極めた道長が筆頭というべきだろう。加えて、仁明天皇の皇子で右大臣となった源光や、嵯峨天皇の皇子で六条に四町もの広大な邸宅を築いた源融、醍醐天皇の皇子で左大臣となった源高明なども有力。

 

 村上天皇の皇子で詩歌や書にも優れた具平親王や、道長の甥で若くして内大臣にまで上り詰めた藤原伊周、平城天皇の孫で稀代のプレーボーイとして名を馳せた在原業平あたりの名が取りざたされることも少なくない。

 

 この中で光源氏との共通点が多く、モデルとして最もふさわしいと筆者が睨んでいるのが、藤原道長と在原業平である。今回は、その一人、道長について可能性を探ってみることにしたい。

 

次のページ■藤原道長のモデル説は正しいか?

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藤井勝彦ふじい かつひこ

1955年大阪生まれ。歴史紀行作家・写真家。『日本神話の迷宮』『日本神話の謎を歩く』(天夢人)、『邪馬台国』『三国志合戰事典』『図解三国志』『図解ダーティヒロイン』(新紀元社)、『神々が宿る絶景100』(宝島社)、『写真で見る三国志』『世界遺産 富士山を行く!』『世界の国ぐに ビジュアル事典』(メイツ出版)、『中国の世界遺産』(JTBパブリッシング)など、日本および中国の古代史関連等の書籍を多数出版している。

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