藤原道長はどんな性格だったのか? 紫式部が日記に描いたプライベート&歴史物語に描かれたさまざまな「素顔」
日本史あやしい話44
とかく傲慢だったとして語られることの多い道長ではあるが、繊細で小心、感激屋で涙もろいという点をも併せ持っていた。『御堂関白日記』や『紫式部日記』、そのほかの逸話を参照しつつ道長の実像を見ていこう。
■道長は、本当に豪胆な大人物だったのか?
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藤原道長(菊池容斎 『前賢故実』
『大鏡』や『栄花物語』を読む限り、道長は、豪放磊落且つ堂々とした振る舞いで、かの源頼光さえ「将帥の器」とまで讃えた大人物だった…と信じてしまいそうである。そこには、彼を褒め称えるような逸話が、これでもかと言わんばかりに盛り込まれているからだ。
父・兼家が公任の才を妬んで「影を踏むこともできまい」と嘆息した際には、二人の兄(道隆と道兼)が返す言葉もなく俯いていたのに対し、道長一人「影をば踏まで、面をやは踏まぬ」(影など踏まず、顔を踏んでやる)と言いのけたという。
また、花山天皇が宮殿において肝試しを命じた際にも、兄たちが恐ろしくて逃げ帰ってきたにもかかわらず、道長は一人大極殿まで行って、証拠として柱を削って持ち帰ったとか。これらの逸話はいずれも、彼の豪胆ぶりを言い表すものとして、よく知られるところである。
加えて、「一家三后」を成し遂げた後の祝いの席上で、有名な「この世をば 我が世とぞ思ふ〜」と詠んだというのも、おそらく知らぬ人はいないだろう。
これらの逸話だけから道長の性格を判断すれば、豪傑と言い切ってもいいのかもしれないが、はっきり言って筆者には、人間味の乏しい、なんとも「嫌な奴」としか見えない。勇ましさを前面に押し出し、さらにそれを鼻にかけるなど、噴飯ものとしか思えないからだ。
しかし、それって、本当に道長の実像と言えるのだろうか? 彼が長年にわたって書き著してきた『御堂関白日記』や、紫式部が記した『紫式部日記』などから垣間見られる道長像とは、大きく異なるからである。
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