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直前まで武力衝突の「回避」を試みていた家康

史記から読む徳川家康㊼


12月10日(日)放送の『どうする家康』第47回「乱世の亡霊」では、徳川家康(とくがわいえやす/松本潤)と茶々(ちゃちゃ/北川景子)・豊臣秀頼(とよとみひでより/作間龍斗)母子との対立が最終段階に入る過程が描かれた。敵対関係は茶々の妹たちでも止められず、家康は最後の望みを託して、茶々に書状を送ったのだった。


豊臣秀頼が自らの意思を表明する

大阪府大阪市に立つ大坂城天守閣。大坂の陣の後、徳川政権下で再建された。現在は大阪城公園として整備されている

 徳川軍による大坂城本丸への砲撃で、豊臣方は大きな損害を受けた。これを受け、豊臣方は徳川方からの和議に応じることとなった。

 

 徳川方は阿茶局(あちゃのつぼね/松本若菜)が、豊臣方は茶々の妹である初(鈴木杏)が、それぞれの代表となり交渉が進められた。

 

 その結果、大坂城の周囲にある堀を埋めること、本丸以外の建造物を破却することを条件に和議が成った。

 

 しかし、両陣営の一触即発の状態は続いた。京では牢人たちが火を放つなど、徳川の治世に対する反抗の態度を鮮明にしていた。

 

 徳川家康は、武力をもって豊臣家を攻め滅ぼす覚悟を決める。家康が軍勢を率いて入京する一方、初に続き、同じく茶々の妹であるお江(ごう/マイコ)が大坂城に入り、茶々に説得を試みるも、状況が変わることはなかった。

 

 そんななか、家康は茶々に自筆の書状を届けさせる。乱世の終わりを希望する家康の心情に触れた茶々は、自身の野心を捨て、豊臣家の行く末を息子の秀頼に全面的に託すことにした。

 

 戦い続けるか、家康に下るか。選択を迫られた秀頼は、戦場で命を燃やし続けることを自らの意思で決断。こうして、乱世の最後の戦いが火蓋を切った。

 

茶々と秀頼は牢人たちを統制しきれなかった?

 

 1614(慶長19)年1219日、豊臣方の交渉役として淀殿(よどどの/茶々)の妹である常高院(じょうこういん)が大坂城から出てくると、徳川家康は側室・阿茶局と家臣の本多正純(ほんだまさずみ)を会わせた。協議の結果、「惣構(そうがま)えの堀・二の丸の堀いずれも埋め候て、本丸ばかり」にする(『本光国師日記』)、「二の丸、三の丸まで破却」、織田有楽斎(おだうらくさい)、大野治長(おおのはるなが)から人質を差し出すことなどの条件で、和睦が成立する(『駿府記』)。

 

 同21日、大坂城の堀の埋め立てが開始された(『福富半右衛門親政法名浄安覚書』)。同22日には豊臣秀頼と淀殿から誓紙をとり(『大坂冬陣記』)、家康は同25日に二条城に戻った(『駿府記』)。

 

 同28日、家康は参内し、後水尾(ごみずのお)天皇に豊臣家と和睦したことを報告(『時慶記』)。

 

 翌1615(慶長20)年元旦、家康は二条城(京都府京都市)で秀頼の使者から年賀の祝いを受けている(『駿府記』)。同月18日には、大坂城の破却が大方済んだことを、二代将軍・秀忠より報告された(『駿府記』)。堀が埋められ、本丸のみとなったことは、大坂城が丸裸になったことを意味する。つまり、事実上の武装解除だった。

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過去記事

小野 雅彦おの まさひこ

秋田県出身。戦国時代や幕末など、日本史にまつわる記事を中心に雑誌やムックなどで執筆。近著に『「最弱」徳川家臣団の天下取り』(エムディエヌコーポレーション/矢部健太郎監修/2023)、執筆協力『歴史人物名鑑 徳川家康と最強の家臣団』(東京ニュース通信社/2022)などがある。

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