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【偉人クイズ】家康の孫・千姫は大坂城を出たあと、どうなった? どこで亡くなった?

偉人クイズ


突然ですが、歴史クイズの時間です!親子で楽しく問題を出し合いながら遊んでみてね!【歴史人Kids】


 

姫路城内にある千姫の人形。猫と一緒に書かれた肖像画があり、猫好きだったらしい。(筆者撮影)

徳川家康には20人ほどの子どもがいました。しかし、乱世の中でもあり、立派に成人した子供は男子9人、女子3人だけです。

 

2代将軍になったのは三男の徳川秀忠(ひでただ)です。秀忠は妻の江(ごう)との間に、二男五女をもうけました。その長女が千姫(せんひめ)です。慶長8年(1603年)、千姫は政略結婚によって7歳のとき、豊臣秀吉の子・秀頼(ひでより)に嫁(とつ)がされます。秀頼もまだ11歳でした。

 

秀頼と千姫は仲良し夫婦だったようですが、突然の別れを迎えます。徳川と豊臣が「大坂の陣」で激突し、千姫は秀頼と死別。落城まぎわの大坂城から助け出された千姫は、江戸の徳川家へ戻ることになりました。19歳で未亡人となってしまったのです。

 

その翌年(1616)、千姫は再婚します。父(秀忠)の命令で桑名(くわな)の藩主・本多忠勝(ほんだただかつ)の孫にあたる忠刻(ただとき)に嫁いだのです。やがて、夫とともに播磨(はりま)の姫路城(ひめじじょう)に移り住み「播磨姫君」と呼ばれ、男の子と女の子を産みました。

 

しかし、ここでも千姫は悲劇におそわれます。長男の幸千代(ゆきちよ)が病気にかかり、3歳で亡くなったのです。千姫は、そのあとも妊娠はしたのですが、流産(りゅうざん)のため、子どもを産むことができませんでした。

 

さらに寛永3年(1626)には夫の本多忠刻までが31歳で亡くなってしまい、また同じ年には母の江も江戸で亡くなります。なげき悲しんだ千姫は、一人娘の勝姫とともに本多家を出て江戸城へ帰りました。このとき、出家して天樹院(てんじゅいん)と名乗ります。

 

江戸に帰った千姫は、なき秀頼のむすめで自分の養女にあたる天秀尼(てんしゅうに)が住職をつとめる、鎌倉の東慶寺(とうけいじ)を再建し、江戸城の北の丸にあった竹橋御殿(たけばしごてん)でしずかに暮らします。

 

なお、千姫が江戸へ帰ってきたとき、父の秀忠はすでに亡く、弟の徳川家光が3代将軍になっていました。家光は姉の千姫が体調をくずしたと聞くと、よくお見舞いにおとずれていたようです。仲の良い姉弟でしたが、家光は城を出る口実にしていたというウワサもあります。

 

そのまま江戸に暮らしていた千姫は寛文6年(1666)70歳で亡くなりました。弟の家光は慶安4年(1651)48歳で亡くなっていたので、4代将軍・家綱(いえつな)の代になっていました。

 

千姫のお墓は東京の伝通院(でんつういん)と、茨城県の天樹院(弘経寺)にあります。天樹院(てんじゅいん)に遺骨(いこつ)が、伝通院に遺髪(いはつ)がおさめられているようです。また、伝通院には家康の母・於大(おだい)の方の墓もあります。どちらも非常に大きくて立派な墓ですので、一度お参りしてはいかがでしょうか。

 

京都の知恩院(ちおんいん)にも分骨(ぶんこつ)をおさめた墓があります。

 

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上永哲矢うえなが てつや

歴史著述家・紀行作家。神奈川県出身。日本の歴史および「三国志」をはじめとする中国史の記事を多数手がけ、日本全国や中国各地や台湾の現地取材も精力的に行なう。著書に『三国志 その終わりと始まり』(三栄)、『戦国武将を癒やした温泉』(天夢人/山と渓谷社)、共著に『密教の聖地 高野山 その聖地に眠る偉人たち』(三栄)など。

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