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【名バイプレイヤーな偉人図鑑】ウィリアム・アダムスの事実を紐解くと、見えてきたのは「家康は実力主義」という評価だった

名バイプレイヤーな偉人図鑑


主役が引き立つのは脇役の存在があってこそ!あまり知られていないけど〝すごい〟偉人は歴史上たくさん存在しています。そんな〝名脇役〟な偉人たちにフォーカスを当てた新企画『名バイプレイヤーな偉人図鑑』。今回は、NHK大河ドラマ「どうする家康」に今後登場する偉人たちの中からウィリアム・アダムスがどんな偉人だったのかを紹介します。


 

今回の名バイプレイヤーな偉人は・・・

ウィリアム・アダムス

ウィリアム・アダムス

■ウィリアム・アダムスってどんな偉人?

 

―豊臣秀吉の朝鮮出兵後、家康にとっての相談相手で外交顧問として重用された、ウィリアム・アダムス。そんな〝すごい〟偉人であるにも関わらず、ウィリアムがどのような偉業を成し遂げたのかを答えられる人も多くはないのはどうしてだろう?

 

※当社調べ

小・中・高等学校の日本史の教科書を読み比べてみるとその答えのヒントが見えてきました。義務教育期間中に、ウィリアム・アダムスと出会う機会は珍しいことから、ウィリアムがどのような功績を遺した偉人なのかを知らなくても当然といえます。

 

しかし、「歴史好き」を名乗るためにも、今後の大河ドラマをより楽しむためにも、ウィリアム・アダムスのことを知っておくことは必要不可欠!そこでウィリアムがどのような偉人だったのかを一緒におさらいしていきましょう。

 

 

■家康より〝相模の三浦〟周辺の土地を与えられた〝航海士〟

ウィリアムの生誕地・ジリンガム(イングランド・ケント州)

ウィリアム・アダムスは、1564年、イギリスの南東部に位置する港町ジリンガムに生まれました。船員をしていた父が早くに亡くなったことから、12歳で造船所に入り、船大工になっています。しかし、造船よりも操船に関心があったようで、イギリス海軍に入り、船長として活躍しています。

 

大航海時代のヨーロッパでは、スペインとポルトガルがいちはやく海洋進出を果たし、覇権国家となっていました。両国は、キリスト教のなかでもカトリックを信仰しており、そのため、イエズス会などのカトリック修道会が日本を含むアジアへの布教を図るようになっていたところです。

 

スペインに圧迫されたイギリスは、その統治下にあったオランダの独立を支援し、1588年、英仏海峡におけるアルマダの海戦で、スペインの無敵艦隊を撃破しました。ちなみに、アダムスも、このアルマダの海戦に従軍しています。このアルマダの海戦を機に、スペインとポルトガルは覇権を失い、代わってイギリスやオランダがアジアへの進出を図るようになりました。

 

1598年、アダムスは太平洋回りでアジアに派遣されるオランダの艦隊に加わり、主席航海士として、そのうちの1隻であるリーフデ号に乗船します。艦隊は5隻で編成されていましたが、途中、スペインやポルトガルによって拿捕・撃沈されたり、難破・沈没したりしたため、リーフデ号1隻だけが豊後国(大分県)の臼杵付近に漂着したのです。日本の年号でいえば慶長5年(1600)の3月で、これは関ヶ原の戦いの半年前にあたり、徳川家康が政治の実権を握り始めていたころのことでした。

 

オランダ船の漂着は、すぐさま大きな問題に発展してしまいます。というのも、イエズス会の宣教師らが家康に対し、リーフデ号を海賊船だと糾弾し、乗組員を処刑するように訴えたからでした。これは、イエズス会を支援するスペインやポルトガルがイギリス・オランダと対立していたというだけでなく、イギリスやオランダでは宗教改革によってカトリックから分立したプロテスタントが信仰されていたということも大きな理由です。スペイン・ポルトガルからすれば、イギリスやオランダは、政治的にも、また、宗教的にも敵国にほかなりません。

 

そこで、査問のためリーフデ号の乗組員が、家康のもとに召喚されることになりました。ただし、船長のヤコブ・クワッケルナックが重病だったことから、アダムスが、オランダ人のヤン=ヨーステン・ファン・ローデンスタインらとともに、大坂城に赴きます。家康に対面したアダムスは、来航の目的とともに、スペイン・ポルトガルとイギリス・オランダの対立の経緯を説明し、海賊船ではないことを理解してもらうことができました。しかも、家康に気に入られたアダムスは、イギリスやオランダとの仲介を依頼されたのです。そのころ、日本とヨーロッパの交易を担っていたのは、スペインとポルトガルだけでした。家康は、イギリスやオランダを日本との交易に参入させ、競わせようとしたのでしょう。

 

スペインやポルトガルでは、海外貿易は王室の独占事業とされていましたが、イギリスやオランダのような新興国では、インド以東での海外貿易の独占を国から認められた東インド会社が商人仲間の出資によって設立されていました。イギリスやオランダが東インド会社を支援したのは、自国に富や植民地をもたらすことはもちろんのことですが、敵対するスペインやポルトガルの富や植民地を奪う目的もあったからです。アダムスの仲介により、イギリスとオランダの東インド会社がそれぞれ、肥前国(長崎県・佐賀県)の平戸に商館を設立することになりました。

 

東叶神社(神奈川県横須賀市)に所在する日西墨比貿易港之碑

慶長8年(1603)、江戸に幕府を開いた家康は、江戸湾の入口にあたる浦賀(神奈川県横須賀市)を国際貿易港にしようとします。アダムスは、浦賀における貿易の統括を求められていたのでしょう。家康から相模国(神奈川県)三浦郡逸見の知行地と浦賀および江戸に屋敷地を拝領したアダムスは、苗字帯刀を許されて三浦按針と名乗ります。按針とは、航海士のことでした。

 

さらにアダムスは、伊豆国(静岡県東部)の伊東で2隻の洋式帆船を建造したり、航海術を教授したりしています。ちょうど家康が東南アジア諸国との朱印船貿易を推進していたところでもあり、造船・航海技術の向上は、日本に大きな影響を与えました。

 

朱印船とは、幕府から朱印状を交付された船のことをいいます。その朱印状を持参することで、渡航先の国からは海賊船と区別され、交易が認められるという取り決めがされていました。アダムス自身、朱印船貿易の経営に乗り出しただけでなく、自ら安南(現在のベトナム)やシャム(現在のタイ)にまで渡航しています。

 

長崎県平戸市に所在するウィリアム・アダムス墓所

このように、家康の家臣となってイギリスやオランダとの通商を確立させたアダムスでしたが、その死後は、幕府に重用されなくなってしまいました。そして、元和6年(1620)、平戸で病没しています。最近、平戸においてアダムスのものと伝わる墓から出土した人骨が、本人のものである可能性が高いという研究が発表されました。

 

 

 

 

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小和田泰経おわだ やすつね

大河ドラマ『麒麟がくる』では資料提供を担当。主な著書・監修書に『鬼を切る日本の名刀』(エイムック)、『タテ割り日本史〈5〉戦争の日本史』(講談社)、『図解日本の城・城合戦』(西東社)、『天空の城を行く』(平凡社新書)など多数ある。

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