始皇帝が“会えたら死んでもいい”とまで慕っておきながら 自ら死に追いやってしまった人物とは
故事成語で巡る中国史の名場面
普段何気なく使っている言葉の中には、中国の歴史にルーツを持つものも少なくない。「矛盾」や「逆鱗(に触れる)」もその例である。特にこの2つは、秦の始皇帝に「この人に会えるなら死んでもよい」とまで言わしめた思想家・韓非にまつわる言葉である。一体どんな人物だったのだろうか?
■始皇帝も感銘を受けた『韓非子』とは
「予(よ)はこの者に会って交わることができれば、死んでも心残りはない」
これは秦王政(のちの始皇帝)が、ある書物を読んだ直後に漏らした言葉である。その書物は『韓非子』(かんぴし)の名で今日に伝えられている。著者の韓非は中国の戦国時代末期に生きた人で、韓の国の公子(王族)ではあったが、よほどの傍流であったのか、韓の政界で要職をあてがわれることはなかった。
韓非が要職につけなかった理由はもう一つある。生まれついての吃音(きつおん)のため、弁舌で人の心を捉えることは不得手だったからで、韓非は積りに積もった鬱憤を晴らすべく、みずからの言説を文字にした。55篇10万5494字からなる『韓非子』がそれである。
印刷技術がまだない当時、書物の普及は筆写によるしかなく、『韓非子』の何篇かを筆写して、秦の国に持ち込んだ者がいた。秦の国内でも筆写が重ねられた結果、それを秦王政に献上する者が現われたのだろう。
韓非の言説はどのようなものであったか。「矛盾」(むじゅん)と「逆鱗」(げきりん)という、『韓非子』に由来する2つの言葉を少し掘り下げるだけでも、韓非の政治思想がおのずと見えてくる。
■「矛盾」と「逆鱗」の生みの親、韓非の思想

韓非の師・荀子の墓(山東省棗荘)
まずは「矛盾」だが、これは楚(そ)の国を舞台とした例え話に始まる。矛(ほこ)と盾(たて)を売る者がいて、自分の矛はどんな盾をも破り、自分の盾はどんな矛をも防ぐことができると誇っていたが、聴衆の一人から、「おまえの矛でおまえの盾を突いたらどうなるのか」と問われたとき、返答に詰まってしまった。
この例え話に続いて、韓非は儒学者が理想視する五帝時代に疑問をぶつける。完全無欠の聖人君主が続いたのなら、5代目の舜(しゅん)にはもはや新たにやることはなかったはず。それにも関わらず、帝舜は農業や漁業、陶芸などの分野で悪習を一掃したという。それは4代目の帝堯(ぎょう)をはじめ、過去4代の君主の治世に至らぬ部分があったからではないか。つまりは、儒家の教えは辻褄の合わないことばかり。儒家の教えでは、現実の政治に対処できないと言っているのである。
もう一つの「逆鱗」は、伝説上の聖獣である龍の喉の下にある逆さ鱗(うろこ)のこと。ちょっとやそっとのことでは感情を動かさない龍も、その逆さ鱗に触れられたら、誰であろうともその当人を殺すと伝えられる。これと同じく、どんな君主にも逆鱗に相当する部分が必ずあり、その君主を説得したいのであれば、断じて逆鱗に触れてはいけない。痛いところを突かれても不快に思わない聖人君主など現実には稀有(けう)の存在なのだから、「虎の尾を踏む」がごとき行為をあえて行なうのは愚の骨頂というわけである。
■失意の中、悲劇的な最期を遂げる

李斯の像(陝西省西安市の秦二世胡亥墓公園)
このような韓非の教えは、秦王政のような血気盛んな君主には歓迎されたが、由緒を誇るばかりで、上辺を飾ることに執着し、変化に背を向け、法治を軽んじる韓の国では日の目を見ることはありえなかった。
そのため韓非は同じく荀子(じゅんし/性悪説を唱えた儒家)のもとで学び、秦で成功を収めていた李斯(りし)の誘いに応じ、公式の使節として秦へ赴いた。秦王政は大いに気に入ったが、何を思ったか、すぐには任用をしなかった。その間に李斯は不安を募らせていた。自分の才が韓非に劣ることを自覚していたからで、韓非が正式に登用されれば、自分の存在価値が下がり、最悪の場合、居場所がなくなると思ったからである。そこで李斯は、韓の公子であることを理由に韓非のことを秦王政に讒言(ざんげん)。李斯の主張に一理あると見た秦王政は韓非を投獄させた。
それでも李斯は手を緩めない。秦王政ほどの君主であれば、すぐさま判断ミスに気づき、命令を撤回させるに違いなく、そうなる前に仕上げをする必要があった。果たして、秦王政が自身の過ちを悟り、赦免の使いを獄舎に遣わしたとき、韓非はすでに帰らぬ人となっていた。李斯の妨害により、釈明の機会も与えられなかったことに、李斯の謀略を見抜けずにいる秦王政への失望が重なり、李斯から与えられた毒を飲んでいたのである。
悲劇的な最期とは、まさに韓非のような場合を言うのであろう。けれども、早すぎる死がその著作の評価を高めた面があることは間違いなく、仮に任用された韓非が実務でミスを重ねていたら、「矛盾」や「逆鱗(に触れる)」などの言葉が広く定着することはなかったかもしれない。