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徳川家康が築山殿と松平信康への処分を断れりきなかった理由とは─家臣の不始末は大将の不始末─

徳川家康の「真実」㉑


徳川家康はまさか自分の嫡男と正室が処刑されてしまうとは思っていなかったようだ…。


 

■信長との20年にわたる同盟の最大の危機を乗り切り、盤石の地位を築く

 

築山殿の首塚
元々祐傳寺にあった首塚が江戸時代にうつされ現在地に。近くの若宮八幡宮には信康の首塚もある。

 

 徳川家康は嫡男・信康と正室・築山殿の不審な動きに対して、決断前に信康に幽閉処分を下し、反省をうながしている。しかし7月16日、安土にいた家康の腹心・酒井忠次(さかいただつぐ)に対し、織田信長は「信康に死を与えよ」と命じた。天下統一にまい進する彼としては、危険な芽は全て潰しておこうと考えたのだろう。「家康は武田内通はあくまで家臣で、信康は別というが、岡崎の大将である信康には全ての責任がある」というのが信長の示す「筋目」だった。その論拠は、信長の娘・五徳(ごとく)からの「十二カ条書」ではなく、信長自身が累年三河に赴いて集めた、生きた情報だった。それこそが忠次の反論を封じたのだと思われる。

 

 そこまでは考えていなかった家康は「信康まで殺せと仰せか!」と仰天し、8月1日慌てて再び忠次を派遣して信長の側近・堀秀政(ほりひでまさ)に取り成しを要請させた。

 

 続いて8日、その秀政に「いろいろと(信長様から)懇切にしていただけたのは、貴殿のお取り成しのお陰です。信康については、不覚悟と問責して去る4日に岡崎から追放しました」と書き送っている(『新修徳川家康文書の研究』徳川義宣、徳川黎明会刊)。

 

 ねんごろな態度で接してくれた信長に対し、信康を知多半島の付け根にある大浜城に移したと報告すれば、ひょっとして信長も気が変わって助命を許してくれるかも知れない。わずかな可能性に期待して家康はその後も遠江・堀江城(ほりえじょう)、二俣城(ふたまたじょう)と信康の身柄を転々とさせたが、遂に信長からの吉報は届かなかった。

 

「これ以上遷延しては信長様から自分まで疑いをかけられる」と判断した家康は、まず8月29日に妻の築山殿を殺害させ、続いて9月15日、とうとう信康をも自害させている。その介錯は服部正成が務める筈だったが、泣き崩れて果たせず、代わりに検使役の天方道綱(あまがたみちつな)が刀をふるったと伝わる。また、信康監視役だった大久保家がその役を務めたともいう。『三河物語』は「これほどの殿はまた出来難し」「上下万民、声を引て、悲しまざるはなし」と信康の早すぎる死を惜しんでいる。

 

信康廟(清龍寺)
信康を供養するために家康によって建立、信康廟所がある。二俣城の復元井楼がある。

 

 なお、五徳は信康の死から5カ月後の天正8年2月20日に岡崎から安土へ引き取られた。このタイムラグを見れば、彼女が信康を嫌っていたというのは後世の創作と分かるだろう。

 

監修・文/橋場日明

(『歴史人』2022年8月号「徳川家康 天下人への決断」より)

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