公衆の面前で寵愛する陰間とイチャイチャ…… 旗本の妻が見た「ドン引き」の現場とは?
炎上とスキャンダルの歴史
■「卑しく見えて片腹痛い」と一刀両断
大河ドラマ『べらぼう』では、売れる前の喜多川歌麿が、男女とわずに売春していたという設定でした。ドラマの歌麿はとくに女装することもなく客を取っていましたが、同様に男女相手に春を売る陰間は、頭から爪先まで女性としてめかしこみ、乙女のごとく振る舞うことがルール化されていたようです。そんな陰間といえば陰間茶屋と呼ばれる店舗所属が多かったのではないか……と思われがちですが、フリーランスの陰間もいたようなんですね。
幕末期の江戸のあれこれを書きとめた旗本の妻・井関隆子の日記には「ある年の5月」、深川の永代寺で「開帳」が行われたので、当地に出向いたときの回想が登場します(「天保十一年十月二十六日条」)。
この頃の永代寺は、富岡八幡なども支配下に収める大寺院でした。隆子の血縁の女性が、永代寺の別当(管理者)の「野木某(なにがし)」に嫁いでいたので、訪問したと『井関隆子日記』にはあります。
永代寺では、複数のご開帳が行われていました。定期的に成田山新勝寺のご本尊(いわゆる成田不動尊の像)を借りてきて公開しましたし、普段は非公開の庭園の開帳も毎年夏頃に行われていました。おそらく井関隆子が親戚女性に呼ばれたのは、この庭園公開を祝う宴だったのだと思われます(原文に記載がなく、推定するしかありませんが……)。
寺の祝宴ですから精進料理が振る舞われ、歌の名人や琴の名手が一芸を披露する華麗な時間でした。しかしこのとき「野木某」は舞の名手として、自分がかわいがっている(愛人の)陰間を客の前に連れ出したのです。
陰間は16歳前後。顔には白粉を塗りこみ、女の髪型と着物姿だったものの、井関隆子の目には、陰間の喋り方や立ち居振る舞いも「明白に男」としか見えませんでした。おまけに陰間は「小太り」で、「野田某」は今の言葉でいう巨デブ……。太め同士のいちゃつきを見せつけられ、イライラしたのでした。
将軍のお傍近くに仕える「納戸組頭」の夫を持ち、自分は夫の仕事を間接的にせよ手伝っている妻だというプライドがあるのが隆子です。家中における正室の役割を世間に認めさせたいのでしょう。陰間が「野木某」に公然と甘える姿なども「卑しく見えて片腹痛い」とケチョンケチョンですし、その後、さらに年を取ったので女装がいよいよ似合わなくなり、男姿にさせたら余計に醜くなった……という後日端まで書きつけています。
さらに隆子の親戚女性をないがしろにして、太った陰間を寵愛する「野木某」も「あとで良からぬことが判明」したので、名物奉行・脇坂安董(わきさかやすただ)に別当職をやめさせられ、押込の刑(=禁固刑)になったとも書いているのでした。
しかしその記憶を、天保11年10月26日になぜ隆子が思い出し、日記に書き留めようと思ったのかは不明。おそらく誰かの夫に同性の恋人がいて……というような話をどこかで見聞きし、過去のイヤな記憶が蘇ったのかもしれませんね。
開帳祝の宴など、本来ならば別当とその正妻の晴れの舞台となるべき場に、厚かましくもしゃしゃり出てくる愛人の陰間など、本当に嫌悪の対象でしかなかったようです。しかし妻側が何を考え、訴えようと、江戸時代の男性の性愛モラルが、現代では考えられないほど緩かったことがわかる一件ではあります。

『江戸男色細見』に描かれた陰間。/国立国会図書館蔵