“トリコロール”初の国産ジェット戦闘機【ダッソー・ウーラガン】
ジェットの魁~第1世代ジェット戦闘機の足跡~ 【第28回】
ジェット・エンジンの研究と開発は1930年代初頭から本格化し、1940年代半ばの第二次世界大戦末期には、「第1世代」と称されるジェット戦闘機が実戦に参加していた。この世代のジェット戦闘機の簡単な定義は「1950年代までに開発された亜音速の機体」。本シリーズでは、ジェット戦闘機の魁となったこれらの機体を俯瞰(ふかん)してゆく。

展示されているダッソー・ウーラガン。本機もまたMiG-15やサーブ29といった単発エンジンの秀作と評される第1世代ジェット戦闘機に共通の、機首に設けられたエア・インテークに寸胴気味の胴体シルエットを備える。
フランス航空産業界は第1次世界大戦以前から、列強でも屈指の有力な存在だった。そして同大戦後の民間航空の隆盛期には、文豪で自身もパイロットのサン・テグジュペリの名著『南方郵便機』や『夜間飛行』にも描かれているように、フランスは世界の航空界をリードする立場にあった。
ところが第2次世界大戦下の1940年6月にドイツの軍門に下って以降、フランス航空産業界はその独自性を失い、国内航空関連メーカーは同国を管理するドイツの指示を受けて「下請け仕事」に従事せざるを得なかった。
そのため第2次世界大戦終結後、フランスは改めて国内航空関連メーカーの再興をはたすことになった。そしてかような動きのなかで、戦前からのフランス航空産業界の重鎮マルセル・ダッソー(改名前はマルセル・ブロック)は、政府の承認をとりつけて自身のダッソー社でジェット戦闘機の開発に着手する。
当時のアメリカやソ連は多かれ少なかれ、最先端のジェット機先進国ながら大戦に敗れたドイツの研究資料や技術者を用いて自国のジェット機の開発を推進したが、それはフランスも同様だった。
特に技術大国のアメリカやソ連でも難渋したジェット・エンジン開発については、ドイツと同じくジェット機先進国だったイギリスのロールスロイス・ニーンを導入した。というのも、当時、フランスではデ・ハヴィランド・ヴァンパイアのライセンス生産が行われており、搭載するジェット・エンジンをデハヴィランド・ゴブリンからニーンへと変更したミストラル(イギリス呼称FB.53)用に、同エンジンがイスパノ・スイザ社でライセンス生産されていたからだ。
M.D.450(M.D.はマルセル・ダッソーの頭文字)の開発番号を付与されたこの機体は、1949年2月28日にダッソー社のチーフ・テストパイロットであるコンスタンティン・ロザノフの操縦で初飛行し、ウーラガン(「嵐」の意)と命名された。
遠心式のニーンを搭載したので太く短めの胴体と、翼端に燃料タンクが装着された、やや後退角が付いた主翼を備えるウーラガンは、性能面でアメリカのF-86セイバーやソ連のMiG-15ファゴットと互角に戦える機体ではなかった。しかし本機を導入して頻繁に実戦に投入したイスラエル空軍では、対地攻撃機として成果を得ている。