空母発祥の国・イギリス初のジェット艦上戦闘機【スーパーマリン・アタッカー】
ジェットの魁~第1世代ジェット戦闘機の足跡~ 【第18回】
ジェット・エンジンの研究と開発は1930年代初頭から本格化し、1940年代半ばの第二次世界大戦末期には、「第1世代」と称されるジェット戦闘機が実戦に参加していた。この世代のジェット戦闘機の簡単な定義は「1950年代までに開発された亜音速の機体」。本シリーズでは、ジェット戦闘機の魁となったこれらの機体を俯瞰(ふかん)してゆく。

スーパーマリン・アタッカー。写真は戦闘機型のアタッカーF.1で、主翼に20mm機関砲の砲身が2本突き出ているのが見える。なお、アタッカーの総生産機数は185機と少ない。
イギリスは、第1次世界大戦末期に空母を生み出した「空母発祥の国」であり、第2次世界大戦中、ドイツに次いでジェット機を実用化した「ジェット機先進国」でもあった。
かような次第で、イギリスでは第2次世界大戦中からさまざまなジェット機の開発が行われていたが、戦時中は既存の有用機種の生産が最優先されたせいで新規の開発作業は二の次とされ、終戦を迎えると、今度は軍事費削減の影響で開発作業にブレーキがかかったり開発そのものが棚上げ、あるいは中止される事態も起こった。
このような時期に、イギリス人にとって「救国の戦闘機」として知られるスピットファイアを生み出したスーパーマリン社は、大戦後期にその後継となる発展型のスパイトフルを開発。しかし終戦直前にやっと量産1号機が初飛行するという状況で、高性能な機体だったが試作機を含めてわずか19機の生産に終わった。
だが第2次世界大戦中の1944年、イギリス航空省は要求性能仕様E.10/44によりスーパーマリン社に対して、当時開発中でのちに初期のジェット・エンジンの成功作として多用されることになる、遠心式のロールスロイス・ニーンを搭載するジェット戦闘機の開発を行わせていた。
スピットファイアの設計者で、42歳で早逝したイギリス航空機設計界の鬼才レジナルド・ジョセフ・ミッチェルの後継者としてスーパーマリン社の首席設計技師となったジョセフ・スミスは、先に自身が手がけたスパイトフルの主翼を利用し、ニーンを搭載した単発のタイプ392を設計。
タイプ392は1946年7月27日にジェフリー・キンダースリー・クイルの手で初飛行に成功したが、既存のジェット戦闘機グロスター・ミーティアとデハヴィランド・ヴァンパイアに比べて、特に秀でた点はないとして採用されなかった。しかし独自にジェット戦闘機を求めていた海軍が、アタッカーと命名して採用を決めた。
だが技術上の問題の解決に手間取ったため、業を煮やした海軍は空軍のヴァンパイアの海軍型であるシーヴァンパイアを20機、暫定的に導入してジェット機対応訓練に用いたほどだった。
海軍向け試作第1号機、すなわちイギリス海軍初のジェット艦上戦闘機は、1947年6月17日にスーパーマリン社首席テストパイロットのマイケル・ジョン“マイク”リスゴーの操縦で初飛行に成功。1951年から部隊運用が開始された。アタッカーは、ジェット機には珍しい尾輪式だったが、このせいでジェット排気が飛行甲板に吹き付けて痛めるといった問題も生じている。
結局、1954年以降は後継機のホーカー・シーホークへの更新が進められてイギリス海軍からは退役。しかしパキスタン空軍が導入したアタッカーは、1964年まで細々と運用が続けられたとも伝えられる。