狂歌で江戸を笑わせ、勘定で国を支えた大田南畝
蔦重をめぐる人物とキーワード⑳
■文芸や官職など多面的な才能を発揮
大田南畝は1749(寛延2)年に、幕臣・大田家の子として生まれた。幼少期から学問に秀で、国学や和歌にも親しんだ。
18歳のとき、転機が訪れる。1767(明和4)年ごろに発表した狂詩文『寝惚先生文集』が話題を呼び、江戸で一躍その名を知られるようになった。この作品は、平賀源内(ひらがげんない)や平秩東作(へづつとうさく)らに才能を見出され、出版を勧められたと伝わる。
その後は「四方赤良」の号を用いて狂歌に没頭。当時、庶民の間で急速に広がっていた狂歌文化の波に乗り、南畝は『万載狂歌集』をはじめとする作品を次々に発表。さらに、男女の機微と風刺を交えた洒落本『変通軽井茶話』なども人気を博し、江戸文壇の中心人物となった。
しかし、1786(天明6)年に老中・田沼意次が失脚し、松平定信による寛政の改革が始まると、風刺的な文芸に対する統制が強まり、南畝の創作活動は一時的に停滞した。改革を揶揄する落首の作者と疑われたことや、田沼政権の関係者と親しかったことが影響したとされる。
以降は、文人よりも幕臣としての活動が目立つようになる。1794(寛政6)年には学問吟味で首席となり、その2年後には支配勘定に就任。長崎奉行所に出役するなど海外貿易の実務にも携わった。
享和年間(1801〜1804年)に入り、改革の影響が徐々に薄れると、文筆活動を再開。「蜀山人(しょくさんじん)」の号を用い、狂歌、漢詩文、随筆など多彩な作品を精力的に発表した。
ただし、役人としては支配勘定以上の昇進はなかった。その背景には、かつての派手な文人活動が評価に影響した可能性もあるといわれている。
晩年の南畝は記録者としての側面を強め、『一話一言』『半日閑話』など、江戸の市井の風俗や出来事を記した随筆を多く残した。これらは庶民の暮らしぶりを今に伝える重要な資料として、現在も研究者に広く活用されている。
1823(文政6)年、南畝は75歳で没した。辞世の句とされる「今までは 人のことだと思ふたに 俺が死ぬとは こいつはたまらん」は、彼らしい洒脱なユーモアに満ちている。
役人、文人、記録者。三つの顔を生き抜いた南畝の人生は、江戸という時代の奥深さを物語っている。
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