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江戸庶民の心をつかんだ伝統芸能「浄瑠璃」

蔦重をめぐる人物とキーワード⑪

■庶民の知識や教養を支えた娯楽作品

 

 浄瑠璃は、日本で独自に発展した「語り物音楽」の総称である。

 

 その起源は、室町時代後期(15世紀末~16世紀初頭)に遡る。源流は盲僧琵琶(もうそうびわ)や説経節といった語り物にあり、16世紀後半に成立した三味線が伴奏楽器として取り入れられ、浄瑠璃発展の礎となった。

 

 この流れの中で、浄瑠璃姫と牛若丸の悲恋を描いた物語が広く人気を集め、この種の語り物が「浄瑠璃」と呼ばれるようになったという説が有力である。

 

 慶長年間(15961615年)頃には、三味線に合わせて語る浄瑠璃に操り人形が導入され、視覚的な要素が加わった。素朴な語り物だった浄瑠璃は、太夫(語り手)、三味線(伴奏)、人形遣いという三者が一体となる独自の芸能文化へと発展し、定着していった。

 

 江戸時代に入ると、1684(貞享元)年に竹本義太夫(たけもとぎだゆう)が大坂・道頓堀で義太夫節を創始し、浄瑠璃の主流を担うようになる。それ以前に流行した金平節、外記節、土佐節などは「古浄瑠璃」と総称される。宝暦年間の1760年頃に成立した富本節も、数多くの流派の一つである。二代目・富本豊前掾(とみもとぶぜんのじょう)は天性の美声で人々を魅了し、富本節の全盛期を築き上げた。

 

 義太夫節が浄瑠璃を代表する流派となった背景には、数々の名作を生み出した近松門左衛門の存在が大きい。

 

 竹本義太夫が創設した竹本座と連携した近松門左衛門は、『曽根崎心中』や『冥途の飛脚』といった作品で江戸の庶民の心を捉えた。近松門左衛門の作風は、実際の事件を基にしたものも少なくなく、人間の義理や人情を深く描き出すのが特徴で、義太夫節をはじめとする浄瑠璃が庶民に広く支持される契機となった。

 

 江戸時代を通じて浄瑠璃は絶大な人気を誇り、多くの演目が制作されるとともに、多数の芝居小屋が建てられた。勧善懲悪の物語や道徳観を育む内容など、浄瑠璃作品が庶民に与えた影響は大きく、知識や教養、価値観の形成にも寄与したといわれている。

 

 明治時代に入り、西洋文化の流入や娯楽の多様化により浄瑠璃の人気は徐々に陰りを見せるが、今日では文楽(人形浄瑠璃)としてその伝統が継承されている。文楽は、1811(文化8)年に植村文楽軒(うえむらぶんらくけん)が一座を組織したのが起源となり、後の文楽座の前身となった。その後、1872(明治5)年に『文楽座』として正式に確立された。1784(天明4)年に並木正三(なみきしょうぞう)が創設した豊竹座(とよたけざ)も、人形浄瑠璃の発展に大きく貢献した重要な流派である。

 

 現在、文楽は国の重要無形文化財に指定され、ユネスコ無形文化遺産にも登録されている。海外公演や学校教育との連携など、次世代にその魅力を伝えるための取り組みが積極的に行われている。

 

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過去記事

小野 雅彦おの まさひこ

秋田県出身。戦国時代や幕末など、日本史にまつわる記事を中心に雑誌やムックなどで執筆。近著に『「最弱」徳川家臣団の天下取り』(エムディエヌコーポレーション/矢部健太郎監修/2023)、執筆協力『歴史人物名鑑 徳川家康と最強の家臣団』(東京ニュース通信社/2022)などがある。

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