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江戸のメディアとして流行を伝えた「錦絵」

蔦重をめぐる人物とキーワード⑩

■現代アーティストにも影響を与える作風

 

「錦絵」は、当時の人々の日常生活や流行を映し出すメディアとして大きな役割を果たした。

 

 その誕生は、江戸時代初期に遡る。1683(天和3)年に活躍した浮世絵師・菱川師宣(ひしかわもろのぶ)は、美人画や物語の挿絵など多様な作品を手掛けて人気を博した。流行に対する、庶民の強い関心に応える形で浮世絵は発展し、師宣をはじめとした絵師たちの創作意欲を刺激した。浮世絵版画の基礎を築いた師宣は「浮世絵版画の祖」と呼ばれている。

 

 肉筆画に始まった浮世絵が木版画に発展していくと、当初は一色刷りの簡素なものだったが、次第に赤墨を用いた紅絵(べにえ)や光沢をつけた漆絵(うるしえ)といった技法が生まれ、使われる色数も3色や4色と増えていった。

 

 そして1765(明和2)年頃、多色刷りの浮世絵が多数発表されるようになると、鈴木春信(すずきはるのぶ)の作品がその代表格となった。春信の描く繊細な色調の「美人画」は庶民の心をつかみ、その色彩豊かな表現が「錦のように華やか」と評されたことから、この手法で描かれる浮世絵が「錦絵」と呼ばれるようになった。

 

 人々の関心が高まるにつれ、多色刷りの技術は急速に進化。多くの錦絵が描かれるようになった。歌舞伎役者や力士を描いた役者絵、現代のブロマイドのような美人画、旅心を誘うような観光名所を描いた名所絵などが特に多く描かれた。いずれも当時の江戸の流行を反映させたもので、多くの庶民に親しまれている。

 

 錦絵に描かれた女性に憧れて服装や髪型を模倣したり、描かれた名所に実際に足を運んで観光したりするなど、流行を世に広く知らせる、今日の新聞やテレビ、SNSといったメディアの役割を担うものとなった。

 

 春信の次世代として活躍したのが、蔦屋重三郎が版元として支えた絵師たちだ。蔦重が版元となって発表した作品には、大首絵(おおくびえ)を発展させた美人画で知られる喜多川歌麿(きたがわうたまろ)、個性的な誇張表現で人々の度肝を抜いた役者絵を得意とする東洲斎写楽(とうしゅうさいしゃらく)など、今日も高く評価される絵師たちが名を連ねている。彼らが錦絵の発展を支えた重要な存在だったことは言うまでもない。

 

 幕末から明治時代にかけては西洋文化の技法も取り入れられ、鉄道や西洋建築、日清戦争や日露戦争を題材にした「戦争絵」も人気を集めた。

 

 明治時代に入り、写真技術や石版印刷の発達に加え、新聞の普及も進んだことで、次第に錦絵の需要は衰退。大正時代にも出版されてはいたものの、1923(大正12)年の関東大震災で版元が激減し、錦絵はその役割を静かに終えた。

 

 今日では美術品として国内外の美術館でその姿を見ることができる。独特の色使いや大胆な構図などは、現代アートにも影響を与えている。

 

 また、錦絵は当時の世相を知るための重要な資料としても位置づけられており、日本の歴史や文化を理解する上で欠かせない存在となっている。

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過去記事

小野 雅彦おの まさひこ

秋田県出身。戦国時代や幕末など、日本史にまつわる記事を中心に雑誌やムックなどで執筆。近著に『「最弱」徳川家臣団の天下取り』(エムディエヌコーポレーション/矢部健太郎監修/2023)、執筆協力『歴史人物名鑑 徳川家康と最強の家臣団』(東京ニュース通信社/2022)などがある。

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