スサノオノミコトは、朝鮮半島からやってきた? 『日本書紀』のミステリー
日本史あやしい話
『日本書紀』一書によれば、天照大神の弟・スサノオは、新羅から土舟に乗ってやってきたことになっている。それは本当のことなのだろうか? もし本当だとしたら、いったいどのようなルートを辿ってきたのか、あらためて検証してみたいと思うのだ。
■スサノオは新羅に降臨したのか?
スサノオといえば、傍若無人な荒れくれ男として、姉・天照大神をも悩ませたとされる神さまである。
神田の畔を壊し、田に馬を放って荒しまわったばかりか、新嘗祭のさなか、祭場に糞をしたり馬の皮を放り込んだりと、やりたい放題の暴挙を繰り返したという。たまりかねた天照大神が岩屋に隠れたことで、この世が暗黒の世界となってしまったとの「天の岩屋隠れ」のお話もよく知られるところだろう。
その後、八百万の神たちがスサノオに寄ってたかってその罪を問い、罪の贖いをさせた上で、高天原から追放してしまったと話が続くのだ。
この御仁、もともと根の国に行きたいと散々言いふらしていたにもかかわらず、彼が天から降り立ったのは、『日本書紀』によれば、出雲の地であった。それが、「出雲の国の簸(ひ)の川のほとり」だったとか。
おそらくは、船通山を水源として日本海へと流れ出る斐伊川(ひいかわ)のことだろう。一書(第二)には「安芸の江川のほとり(広島県安芸郡坂町北新地辺りか)」との説も記すが、注目すべきは、一書(第四)の「子の五十猛神(いたけるのみこと)と共に新羅の国に降臨した」という記事である。その地が「曽尸茂梨(そしもり)」だったという点に注目したいのだ。
ここでの問題点は二つ。まず、スサノオが新羅に降臨したとの記事は本当なのか、さらには、この新羅の国の曽尸茂梨というのがどこのことを示しているのかの二点である。
まずは前者、新羅に降臨した記事の信憑性から。これは前述したように、『日本書紀』が明記しているので、あとはこれを補強してくれる材料を探すだけである(後述)。ただし、それがスサノオなる新羅で祀られていた神だったのか、あるいは、新羅の人々を率いて我が国に渡来してきたスサノオを名乗る人物であったのかは明確ではない。
では後者、曽尸茂梨の位置はどこにあるのか。これは単に、当時の首都・慶州のこととみなす向きもあれば、春川にそびえる牛頭山や、高霊にそびえる伽耶山等々、これまた諸説が飛び交って収拾がつかないというのが実情である。
要するに朝鮮半島のどこに居たのかはわからないが、そこにいたであろうスサノオなる神あるいは人物が、「この国に居たくない」として、土で作った舟に乗って、東の方へと渡り、ついに出雲の国の簸の川の上流にある鳥上の山にたどり着いたというのである。
ここに記した鳥上の山というのが、鳥取県日南町と島根県出雲町の境に位置する船通山とみなすのは、多くの識者が認めるところだ。となれば、スサノオの朝鮮半島からの渡来ルートは、出雲の斐伊川を経由して船通山へとたどり着いたことになりそうだ。
■大田市に伝わるスサノオ一家の渡来伝説
さて、前述したように、スサノオが新羅からやってきたことは『日本書紀』に記されていたものの、それを補強してくれる材料が必要である。そこで参考にしたいのが、島根県西部の石見地方に伝わるスサノオに関する数々の伝承である。
まずは、大田市の地図を広げていただきたい。出雲から海岸線をたどって西へ西へと進んでいったところで、何かお気付きにならないだろうか。おそらく、すぐに五十猛町という名を見つけることができるはず。
そこには、五十猛神社はもとより、神別れ坂や逢島、韓神新羅神社などが点在。さらには、地図ではなかなか見つけ難いが、神島、小神島、神上、韓浦、韓郷山なる地名もある。
これらの地名が、いずれも、スサノオとその子・五十猛にまつわるものであるということに注目したいのだ。ここからは、大田市に伝わるこの親子にまつわる伝承について、振り返ってみることにしよう。
まず、重要なのは、ここでも、スサノオたちが朝鮮半島から渡来してきたとみなしている点である。半島のどこからかは明記していないが、ともあれ、そこから舟でたどり着いたのが、五十猛町の沖合に点在する小さな岩礁・神島であったという。
そのすぐ側にある小神島を経て、すぐ目の前の神上と呼ばれた浜辺に上陸。それが、スサノオの記念すべき上陸地だったという。その後、スサノオは根の国へと姿を消してしまうが、後に残された五十猛の活躍ぶりが顕著だったのだろう。その周辺がいつの間にか五十猛と呼ばれるようになったようである。
また、スサノオの娘・オオヤツヒメやツマツヒメは、五十猛と共に、父の命によって、全国の山々に木種を撒いたことでも知られている。そのオオヤツヒメを祀るのが、五十猛町の南に位置する大屋町にある大屋姫命神社で、ツマツヒメを祀るのが漢女神社。この大屋町の町名自体が、オオヤツヒメにちなむものであったということにも注目しておこう。もちろん、前述の韓神新羅神社の祭神はスサノオである。
さらには、新羅からの道すがらともいえる益田市乙子地区は、身体から出した食べ物を振舞ったとしてスサノオに殺されたオオゲツヒメとその子・オトゴサヒメにまつわる伝承が伝えられているところでもある。
このように、大田市やその周辺に点在するスサノオ一家ゆかりの地名の多さから鑑みれば、スサノオたちが、本当に史実として実在して、この地へとたどり着いたように思えてしまうのだ。もちろん、明確なことは言えないが、スサノオに仮託された何らかの勢力が、朝鮮半島からやってきたことだけは間違いないだろう。

出雲市の山中に祀られた韓竈神社は、300段もの階段を上った先。巨石と巨石の間のわずかな隙間を縫って、ようやくたどり着く。祭神はスサノオ/撮影・藤井勝彦