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南北戦争・ゲティスバーグの戦いの結果 南軍司令官リーはなぜ南部に撤退できたのか?

軍事史でみる欧米の歴史と思想

 

■南北戦争の天王山となった激戦の結末

 

 186371日から3日にかけて、激戦が繰り広げられたゲティスバーグの戦いでは、北軍(ポトマック軍)計115,000名と南軍(北ヴァージニア軍)計73,000名が対決した。3日間の戦闘の結果生じた戦死者や戦傷者、行方不明者、捕虜を含む両軍の損失は、以下のとおりである。北軍の損失は23,000名強、南軍の損失は28,000名強(文献によっては約36,000名)であった。3日間の戦闘後の状況を概算すると、北軍の残存兵力は約92,000名、南軍の残存兵力は(37,000名から)約45,000名となる。つまり74日の時点で北軍は、南軍の少なくとも2倍以上の兵力を有していたはずであった。

 

 こうした兵力差だけでなく、南軍が、北部領内の奥深くペンシルヴェニア州まで北上していたこと、「ピケットの突撃」で壊滅的打撃を受けて士気が落ちていたことを踏まえると、北軍は、地の利や士気の点でも圧倒的に優勢であった。それゆえ北軍が本気で追撃すれば、南軍を撃滅するか、南軍に降伏を強制できただろうと考えられる。このような危険な状況のなか、74日の雨中に南軍司令官ロバート・リーは、南部ヴァージニア州への撤退を始め、ゲティスバーグの戦場から西南西のヘイガーズタウンへ落ちていった。

 

 当時から、後方の北軍将校や大統領は弱体化した南軍を追撃すべきと考え、発言していた。たとえば、北軍の軍用鉄道局(USMRR)の現場責任者ハーマン・ハウプトは、7月上旬の電信や書簡で、首都ワシントンDCのヘンリー・ハレック総司令官らに具体的な戦術案を示している。ポトマック川を南へ渡る前の南軍をすぐ攻撃すべきだ。もしそれが間に合わなければ、南部からの鉄道を遮断して南軍補給路を断ち、南軍に降伏を強制すべきだといったものであった。同じころエイブラハム・リンカン大統領も、ハレックに対し、北軍の目的は首都防衛だけでなく、南軍撃滅にあると強調した長文の電信を送っていた。

 

 しかし、前線のポトマック軍司令官ジョージ・ミードは、北軍の兵士に休養を取らせつつ物資を収集することを優先し、リーの追撃に慎重なままであった。その結果、南軍残存部隊を率いたリーは南部に帰り着くことができ、南北戦争自体、あと約二年間も続いたのである。後世から見ると、リンカンやハウプトらに先見の明があり、ミードがあまりにも鈍重で愚かであったように映るだろう。勇敢さに欠けていたと批判されても仕方あるまい。

 

 しかしながら、前線と後方の判断の違いというものが、ここで如実に現れたとも考えられよう。後世でも南軍の損失数が一定しないのなら、激戦直後の当時、南軍の実働兵力がどのくらい残っているか、北軍には不明であっただろう。そんな少なくとも数万人規模の兵力を、山間部の要地に伏兵を置きそうな戦上手のリーが率いているのである。ミードや彼の幕僚らが南軍追撃に尻込みしたのは、ある程度、無理からぬことであったと思われる。

ジョージ・ミードは南北戦争において当初北軍の准将として従軍し、功績をあげて旅団指揮官からポトマック軍指揮官まで昇進した。
アメリカ議会図書館蔵

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布施将夫ふせまさお

京都外国語大学・京都外国語短期大学教授、学生支援部長。京都大学博士(人間・環境学)、関西アメリカ史研究会代表幹事。専門は19世紀後半における欧米の軍事史。主な著書に『補給戦と合衆国』(松籟社,2014)、『近代世界における広義の軍事史―米欧日の教育・交流・政治―』(晃洋書房,2020)、『欧米の歴史・文化・思想』(晃洋書房,2021)など。

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