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南北戦争の天王山・ゲティスバーグの戦い 決死の突撃に踏み切った南軍と兵力で対抗した北軍

軍事史でみる欧米の歴史と思想

 

■1863年7月3日に決した勝敗

 

 186371日から北部領内のゲティスバーグで始まった南北両軍の戦いは、73日に最終日を迎えた。2日の夜から南軍には、ジョージ・ピケット少将の歩兵師団とジェブ・スチュアートの騎兵師団が到着し、南軍は再び約5万人の兵力となった。同じころ北軍には、ポトマック軍最大のジョン・セジウィックの軍団が到着したため、北軍はこの三日間で最大の約72,000人に膨れ上がった。前日以上の兵力差にもかかわらず、南軍司令官のロバート・リーは、北軍陣地の中央部を新着のピケット師団で撃破することを期待したのだ。

 

 3日午前中のリーによる作戦計画の説明に、ジェームズ・ロングストリート第1軍団長が異を唱え、リーの翻意を促したが無駄であった。一方、ピケットはリーの作戦に乗り気で、彼自身の5個旅団、北隣から4個旅団、さらに西隣から2個旅団、計11個旅団12,500人が北軍中央部を攻撃することになった。この集中攻撃は、前日の梯形陣による攻撃が連携を欠いて失敗したことを踏まえて企画されたのである。ロングストリートが言うように前日の南軍の攻撃より兵力不足であったが、まずは妥当な判断と言えるのではなかろうか。

 

 午後1時から、南軍の140門の大砲による集中砲撃が始まった。あわてた北軍の大砲も砲撃を始め、午後2時まで両軍の砲撃は続いた。2時すぎから北軍の砲台は砲撃をゆるめ、南軍の砲撃により自軍の大砲が破壊されたと思わせようとした。そのため3時ごろには両軍の砲声が静まった。砲撃に伴う硝煙の雲が消え、見晴らしが良くなっていく。

 

 そんななか南軍の歩兵11個旅団が丘の頂の木立から現われ、隊列を整頓した。ピケットの兵たちは、石壁もある北軍陣地中央に向けて野原を2㎞も行軍し、まるで練兵中のように斜めに行進して部隊間を詰めた。ただし、この間にも北軍の各砲台から十字砲火が注ぎ、散弾も使われたため、ピケットの戦列には大穴が生じた。にもかかわらず南軍は進撃を続け、世にいう「ピケッツ・チャージ(Pickett’s Charge)」、つまり決死の突撃を開始した。

 

 なかには、ルイス・アーミステッド准将の部隊のように北軍陣地の石壁を乗り越え、北軍の砲台占拠に一時的に成功した例もあった。しかし、アーミステッド自身がすぐに致命傷を受けて倒れたように、「ピケッツ・チャージ」は粉砕され、大失敗したのである。この突撃に参加した兵士12,500人のうち、7,500人が未帰還となったほどであった。退却してきた帰還兵を出迎えたリーもロングストリートも北軍の反撃に備えたが、その追撃はなかった。

 

 こうした大敗を目の当たりにしたリーは、「すべて私の責任だ(All this has been my fault.)」 と言ったとされる。ゲティスバーグの戦いは南軍の完敗に終わった。もし、北軍の砲撃中止に構わず、南軍が砲撃を続けたまま歩兵を突撃させていたら、結果は変わったであろうか。歴史にifは禁物とはいえ、こんな夢想をしてみたくなる結末であった。

ロバート・リーの肖像。ゲティスバーグの戦いでは大敗を喫したが、兵力や物資で勝る北軍に対抗できる名将として重用され続けた。
アメリカ議会図書館蔵

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布施将夫ふせまさお

京都外国語大学・京都外国語短期大学教授、学生支援部長。京都大学博士(人間・環境学)、関西アメリカ史研究会代表幹事。専門は19世紀後半における欧米の軍事史。主な著書に『補給戦と合衆国』(松籟社,2014)、『近代世界における広義の軍事史―米欧日の教育・交流・政治―』(晃洋書房,2020)、『欧米の歴史・文化・思想』(晃洋書房,2021)など。

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