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なぜ日本の皇室は「世界から一目おかれている」のか? 他国からリスペクトを集める人間性 「ソフト外交」で戦争責任と向き合う

天皇と皇室の日本史


日本の皇室は、武士政権の移り変わりがあっても断絶することなく、1500年という歴史を紡いできた。その長い歴史と人間性により諸外国からも一目置かれている日本の皇室は、諸外国を訪問し戦後課題と向き合うなど、外交において重要な役割を果たしている。福田赳夫外相が「多くの外交官をもってしても天皇の親善外交には足元にも及ばない」とも述べた皇室の「ソフト外交」について、改めて見ていこう。


 

■日本の皇室が世界一 もっとも歴史深い王室

 

 海外には古い歴史をもつ王室は多く存在する。日本の皇室の誕生は紀元前と言われるが、確認できる歴史では6世紀に誕生して少なくとも1500年は継続している。

 

 日本皇室は最古だが、2位は10世紀に成立したデンマーク、3位は11世紀の発祥と言われるイギリス王室、4位は15世紀半ばに起源を持つスペイン王室、5位は何度も交代したが現在の王朝は16世紀に誕生したスウェーデン王室だ。

 

 また名称について日本では天皇だが、世界ではエンペラーと紹介されている。日本の情報を記したエンゲルベルト・ケンペル『日本誌』には徳川将軍は「世俗的皇帝」、天皇は「天子」・「帝」(ミカド)と呼称されたが「聖職的皇帝」と紹介され、明治時代になり天皇となっている。黒船で有名なペリー提督はやはり天皇について皇帝の名称を使っている。

 

 また本来なら武士政権が権力を奪取したとき皇室は消滅しても不思議ではない。中国の歴代王朝は政権が倒されると王朝そのものも瓦解している。ところが日本では、武士政権は皇室に敬意を払い、権力を奪取しても皇室は官位を武家に与えることで一定の影響力を持ち、武士政権はそれを最大限に活用した。

 

 さらに武士政権が終焉を迎え天皇に政治政権を返すという建武の新政、王政復古など皇室が断絶することなく、武士とのダブルスタンダードで時代を乗り越えてきたことが他国では例を見ない統治形態でもある。

 

 ともあれ1500年も継続している皇室は前代未聞の存在となっている。現在君主国家は28か国、それらの国々や王室を失った国から皇室は深い敬意を持たれている。福田赳夫外相は裕仁天皇の外遊に帯同した時、多くの外交官をもってしても天皇の親善外交には足元にも及ばないと述べている。一般の日本人には実感は薄いかもしれないが、諸外国からは長い歴史とその人間性についてリスペクトされており、日本には重要な外交資産ということができる。

 

 天皇外遊が協議されているとき、国会では天皇は国家元首か否か、議論が繰り返された。憲法では明記されておらず、天皇は国民統合の象徴ではあるが外国ではなかなか理解が難しいようで国際的には国家元首、国内的は象徴というこれもまたダブルスタンダードの様相となっている。これは今後の課題になるかもしれない。

 

 即位の礼や大喪の儀などで皇室は古き伝統のある儀式を行うなど変わらないシステムは続いているが、宮中での祭祀など国家と国民の安寧と繁栄を祈るシステムは続いており、政教分離の政策は堅持しつつ、新嘗祭、大嘗祭など田植え、稲の刈り入れといった農耕民族の形態を残している。

 

 昭和64年(1989)1月7日に裕仁天皇は崩御した。おりしもパリで化学兵器禁止の国際会議が開かれていたが参加国149か国の全員から黙とうが捧げられ、2月24日の大喪の儀では164か国、国際機関の代表や元首が参列、稀にみる規模となった。ただしオランダ王室だけ欠席している。

 

 裕仁天皇への同国の想いは最後まで変わらなかった。この時、日本特集の番組を組んだ各国の報道機関も多く、戦争責任問題も含めて皇室の存在をあらためて世界に問う機会にもなった。

 

 イギリス王室は外に向かってオープンだが、元来保守的な皇室の菊のカーテンはまだまだ厚く、他の王室に比べ不透明な部分はある。昨今、宮内庁はIT時代に合わせてインスタグラムで皇室を紹介するなど開かれた皇室を目指して尽力している。そうした神秘性と伝統的な祭祀を粛々と毎年こなしていく皇室は、その継続性がゆえに各国に畏敬の念を抱かせている。

 

 さて戦後課題と向き合った明仁天皇は、各地の激戦地を訪れて献花し深々とこうべを垂れる様子、それは慰霊の旅として知られているが在位時代、平和への願いを訴える象徴的な光景だった。

 

 最初は、沖縄や国内の戦場跡だったが、その後硫黄島はもとより、パラオ、ベトナム、フィリピン、ホノルルを訪れて戦死者、戦没者の冥福を祈る真摯な姿勢、さらには「お言葉」に表れるような平和への願いと一貫している。長年にわたってこの姿勢を退位するまで継続した想い、それは少なからず世界に影響を与えた。明仁天皇の努力により皇室外交は新たな使命を帯びることになったともいえる。

 

 戦後、裕仁天皇の名代として明仁皇太子は数多くの外遊をこなしたが、それは何も彼だけではない。三笠宮崇仁(みかさのみやたかひと)親王、高松宮宣仁(たかまつのみやのぶひと)親王、常陸宮正仁(ひたちのみやまさひと)親王など裕仁天皇の弟宮たちは新生日本との親交を深めるため諸外国を訪問している。戦後賠償が一段落すると、平和国家の使者としてアジア諸国を、欧米を始め各地を訪問している。

 

 首相や閣僚の政治外交使節ではないために、この皇室によるソフト外交は日本をめぐる国際環境を整えるためには今後も重要な役割を果たすことは間違いないだろう。

 

ペリリュー島戦争遺跡

監修・文/波多野勝

『歴史人』2024年10月号「天皇と皇室の日本史」より

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