エリザベス女王の来日に「大きな試練」とこぼした昭和天皇、反日感情と向き合った明仁天皇… 皇室外交150年の軌跡
天皇と皇室の日本史
現在では「国際親善」と呼ばれる皇族の外遊。そのはじまりは、外交の意味合いが強く、歴史の中でその意義や天皇の立場も変わってきた。皇室と海外の関わりの歴史を追おう。
■皇室外交150年の軌跡 ―はじまりから現在まで―
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明治天皇聖徳大鑑(国立国会図書館)
徳川家の幕藩体制が崩壊して明治新政府が劇立した時、皇室も大きく変化した。世は帝国主義時代、ヨーロッパでは列強が跋扈(ばっこ)して世界で植民地蚕食(さんしょく)活動が激化していた。政府は、列強と対等になるため不平等条約の改正、国会開設、憲法の制定など西欧へ並ぶための道をまい進した。日本にとって文明開化や富国強兵は近代国家を目指すため当然の選択だった。
明治2年(1869)、ビクトリア女王の第2王子エジンバラ公が来日した。王子は明治天皇と対等の面会を要望、政府は彼の国賓(こくひん)待遇を決定した。宮中晩餐会など接遇のマニュアルがないため、浜離宮の浜御殿を迎賓施設に改修、高級料亭の八百善(やおぜん)からいわゆるデリバリーして一行を接待した。初めての経験であり、国際儀礼を知らなかったばかりにこうした処置がとられたのである。
この教訓も含めて日本から欧米に派遣される重要な使節のトップは皇族が担うことになる。ヨーロッパの多くは王室を中心に階級社会が形成されており、列国と交渉するには皇族の権威が必要だった。
宮中内の西欧化も始まり、儀典課なども設置され勲章儀礼も制度化され宮廷外交の基盤が形成されていった。近代国家を目指す日本で文明開化・富国強兵の一翼を担った皇族の貢献は非常に大きい。
明治29年、ロシアのニコライ2世の戴冠式に伏見宮貞愛(ふしみのみやさだなる)親王が出席、また日英同盟を締結後、日露戦争では同親王は第1師団長として遼東攻略戦に参戦、中途より訪米してセントルイス万博を観覧、同地では歴戦の将軍として大歓迎を受けた。その後遺英答礼大使として訪英、日英博覧会名誉総裁として日英親交に尽力した。皇族の重鎮として明治時代、日本のイメージアップに貢献し、明治天皇は明治39年ガーター勲章をアジア初の国家として授与されている。
転機となったのは、大正10年(1921)、裕仁皇太子の外遊だった。大正天皇の病気が危惧される中、第1次世界大戦が終了し世界平和が訪れた時、皇太子が現場で帝王学を学ぶことが急務として外遊を元老や原敬(はらたかし)首相らが破天荒な決断をした。
目的地はイギリスだが、この時ジョージ5世の統治時代で、立憲君主の姿勢、アソール公の居城では貴族と平民の交流を見るなど皇太子は得難い経験をしている。大陸では古戦場での悲惨な戦闘の話に落涙、さらに大学の講義では「君臨すれども統治せず」といった立憲君主の神髄を学習、初めて見る欧州に大きな影響を受けた。弟宮の秩父宮雍仁(ちちぶのみややすひと)親王も英留学を経験、高松宮宣仁(たかまつのみやのぶひと)親王も新婚旅行で訪英しており、英王室訪問は皇族の慣例行事となった。
しかし、昭和に入ると非常時の風潮が高まり、積み上げた皇室外交は水泡に帰し、日英米との戦争で天皇のガーター勲章も剝奪となった。戦後、日英関係復活の機会をつくったのも王室だった。昭和28年(1953)のエリザベス女王戴冠式に、次代を担う明仁(あきひと)皇太子が招かれたのだ。皇太子は太平洋を渡りカナダを列車で移動、途中駅では昼夜を構わず多くの日系人に歓迎され、そこで、戦時中の彼らの強制収容所体験を知ることになった。この外遊は、後の明仁天皇の慰霊の旅につながる経験になった。
またイギリスでは、チャーチル首相は、反日運動を激化させないためマスコミや政財界の重鎮を集めて茶会を開いて皇太子を紹介、一部にあった反日運動を事前に抑え込んだことも異例な対応だった。
その後、1960年代からアレクサンドラ王女、マーガレット王女など英王族が次々と訪日して英国フェアを観覧、チャールズ皇太子も大阪万博観覧会に来日している。
戦後、皇室外交の象徴的事例となったのは昭和46年の昭和天皇の訪欧、昭和50年の訪米だった。前者は感傷旅行と位置付けられ、同時に人間天皇を紹介する趣旨があったが、政府の想いとは違い、英蘭両国では大戦の戦時捕虜の過酷な扱いをめぐって予想外の反発があった。
晩餐会では天皇は古き良き時代からの交流に言及するが、英蘭では国民の心情もあって戦時捕虜たちの苦難の体験に触れないわけにはいかなかった。政府は「お言葉」に政治性を持たせないように腐心したが、相手国の心情を思うとその後「お言葉」で言及しないわけにはいかなくなった。皇室外交に負の遺産が課題になった外遊でもあった。
昭和50年、エリザベス女王が初来日した時、昭和天皇は初めて晩餐会で「大きな試練」と言及した。以後、大きな試練”は明仁天皇に引き継がれた。平成10年(1998)、イギリスを公式訪問した明仁天皇は晩餐会でのスピーチで「深い心の痛み」と述べ大きな話題になった。
平成24年(2012)の女王の在位60年の式典に天皇は訪英、令和4年(2022)、女王の国葬には徳仁天皇は慣例を破って天皇として海外の国家元首の国葬に参列、令和5年に天皇は新たなガーター勲章をつけてチャールズ国王の戴冠式に出席、現在の日英の皇族の良好な関係を物語っている。
監修・文/波多野勝