名銃だったが数があまりに少なすぎた【100式機関短銃】
日本軍の小火器~大日本帝国の軍事力の根幹となった「兵士たちの相棒」~【第15回】
かつて一国の軍事力の規模を示す単位として「小銃〇万挺」という言葉が用いられたように、拳銃、小銃、機関銃といった基本的な小火器を国産で賄えるかどうかが、その国が一流国であるか否かの指標でもあった。ゆえに明治維新以降、欧米列強に「追いつけ追い越せ」を目指していた日本は、これら小火器の完全な国産化に力を注いだのだった。

100式機関短銃後期型。同型の発射速度は毎分700~800発。
第1次大戦では、塹壕戦など突撃をともなう戦いで、歩兵同士の近接戦闘がおこなわれることも少なくなかった。その際、ボルトアクションの当時の主力軍用小銃では、1発撃つごとに手動で排莢・装填をおこなわねばならず、これが間に合わずに銃剣の出番となるケースも多々あった。
そこで、トリガーを引くだけで発射・排莢(はいきょう)・装填がおこなわれるオートマチック拳銃が近接戦闘で使われるようになり、同じ拳銃弾を使用するが、機関銃と同じ連射機能を備えた世界初の実用量産短機関銃のベルクマンMP18がドイツで開発され、第1次大戦末期に大いに役立っている。
しかし、第1次大戦で本格的な地上戦を経験しなかった日本陸軍は、同大戦後に短機関銃の研究こそおこなったものの、生産しようとはしなかった。だが1931年になると、海軍は陸戦隊にMP18の改良型であるMP28を装備させた。というのも、海軍陸戦隊は機関銃の装備数が少ないにもかかわらず、派遣先で多数の敵を相手に無勢の戦いに巻き込まれることも少なくなかった。そこで、機関銃の不足を補完する目的で短機関銃が配備されたともいわれる。
「ベルクマン式機関短銃」と称されたMP28の有用性が実戦において認められると、日本陸軍もついに短機関銃の開発に着手。こうして造られたのが、1941年に準制式化された100式機関短銃(日本軍は短機関銃ではなく機関短銃と称した)である。全木製のライフルストックを備え、マガジンは30連のダブルカラアムで銃の左側から装着する。使用弾薬は8mm南部弾だった。
敵地に降下し、陸戦隊と同様に孤立して戦うこともある落下傘部隊で使用するため、100式機関短銃は木製ストックと銃身込みの機関部が簡単に分離でき、降下用銃器収容袋に収めて携行可能。また、落下傘部隊の携行をさらに容易にするため、蝶番で木製ストックを折畳めるようにした100式機関短銃特型も生産された。
8mm南部弾は弱威力だったが、その分反動が小さく、銃の重量と木製ストックによって連射時のコントロールはしやすかったと伝えられる。加えて作動不良もごく少なく、使い勝手がよかったという。
しかし、100式機関短銃の総生産数はわずか25000挺前後。突撃を厭わない日本兵にとって、近接戦闘で大きな威力を発揮したと思われる短機関銃だけに、いかんせん配備数が少なかったことは残念だった。