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劉備の采配ミス? なぜ「夷陵の戦い」で黄権は軍師として使われなかったのか

ここからはじめる! 三国志入門 第105回

 黄権(こうけん/?~240)といえば、はじめは「蜀の文官」として登場する人物だ。益州(蜀)の劉璋(りゅうしょう)のもとで主簿(しゅぼ/帳簿や庶務の統括役)をつとめる。だがこの男、一介の文官では終わらなかった。

 

 はからずも二君、いや三君に仕えながら一度も「裏切り者」呼ばわりされなかったという人でもある。その奥ゆかしい生涯とは。

三国志演義連環画より 小説では劉璋の裾に噛みついてまで、黄権が降伏をいさめる場面がある(三国志演義連環画より)

 

 西暦211年、劉備は劉璋の招きに応じて蜀に入った。北方の張魯(ちょうろ)討伐を頼まれたからである。だが実質、劉備の狙いは益州(蜀)乗っ取り。これが劉備の梟雄(きょうゆう)たるゆえんだが、すでに蜀は内部崩壊しかけていた。法正(ほうせい)や張松(ちょうしょう)といった親・劉備派の官僚たちは、諸手をあげて新君主を迎えようとする。

 

 これに毅然と反対したのが誰あろう黄権。「劉備を入れれば、一国にふたりの君主ができてしまいます」と言って諌めた。しかし、劉璋は黄権の声に耳を貸さないどころか干して遠ざけた。はたして3年後、蜀は劉備の手に落ち、旧蜀の諸官が劉備に次々と降伏するなか、黄権は最後まで抵抗をつづけ、やっと膝を屈した。感じ入った劉備は、彼に偏(へん)将軍の地位を与えて遇したのである。

 

 219年、劉備は曹操との漢中争奪戦に勝利して「漢中王」を名乗る。魏の夏侯淵(かこうえん)を討つなどの戦果も挙げたこの戦い。広くは、法正が軍師として従軍した功労者として知られる。ただ実際「その戦略大計は黄権が立てたものである」と、『三国志』黄権伝はつたえている。法正と黄権は、戦場での役割も違ったということか。

 

■「夷陵の戦い」で兵を率いるも……正史の矛盾

 

 しかし同年、東の荊州で異変が起きた。関羽が魏・呉の挟撃を受けて敗死。荊州の一大拠点・江陵(こうりょう)が呉に奪われたのである。劉備は大いに怒り、ただちに呉への出兵の準備を始めるが、皇帝即位など国内体制の準備に時間を要した。結局、呉への出陣は221年まで延びた。ただ、その間に張飛・黄忠・糜竺といった功臣に加え、新軍師・法正まで世を去ってしまう。

 

 それでも荊州奪回は急務とされた。呉へ出陣しようとする劉備をいさめたのは、まず功臣の趙雲だった。つづいて諫めたのが黄権だ。「長江を下って攻めることになりますから退くのは困難です」と、不利を説く。聞き入れられないとみるや「まず私が先駆けして呉軍の力を試します。陛下は後詰をなさってください」とまで言った。

 

 だが劉備はどちらの提案も退けた。趙雲には後詰を命じ、黄権には長江北側を行く別動隊の指揮を命じたのである。黄権はこのとき趙雲より上位と思われる「鎮北将軍」になった。大変な出世といえたが、すなわち北(魏)に備える役割を劉備から任された(遠ざけられた)と解釈もできる。翊軍将軍・趙雲は殿(しんがり)にされたが、のちに劉備の撤退を助けるなど有効な働きをする。

 

 先に結果を書くが、呉へ向かった劉備は陸遜(りくそん)の戦略にはまり大敗。蜀軍は西へ全軍撤退となるが、北岸にいた黄権の軍は蜀への退路が遮断され、敵中に孤立した。逃げ場をなくした黄権は呉ではなく、北の魏へと投降を余儀なくされた、という。

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上永哲矢うえなが てつや

歴史著述家・紀行作家。神奈川県出身。日本の歴史および「三国志」をはじめとする中国史の記事を多数手がけ、日本全国や中国各地や台湾の現地取材も精力的に行なう。著書に『三国志 その終わりと始まり』(三栄)、『戦国武将を癒やした温泉』(天夢人/山と渓谷社)、共著に『密教の聖地 高野山 その聖地に眠る偉人たち』(三栄)など。

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