道長との「協調路線」を守った一条天皇
紫式部と藤原道長をめぐる人々⑬
995(長徳元)年に道隆が病没すると、道隆の弟である藤原道兼(みちかね)が関白に就任。しかし、就いた数日後に病死した。次の関白をめぐり、道隆・道兼兄弟の弟である藤原道長と、道隆の子である藤原伊周(これちか)との間で激しい争いが勃発したが、一条天皇は以後、摂政・関白を空位とした。
そこで道長は、一条天皇の母であり、自身の姉でもある詮子を動かし、摂政・関白に代わる内覧(ないらん)という肩書を得て、実権を握ることに成功した。
当時の一条天皇は道隆の娘である定子(さだこ/ていし)という皇后を寵愛していたが、そこに道長は自身の娘でまだ12歳の彰子(あきこ/しょうし)を入内させた。
このことにより、一人の天皇につき二人の皇后が並び立つ、すなわち一帝二后という前代未聞の事態を生み出している。なお、定子に仕えた女房が清少納言(せいしょうなごん)、彰子に仕えたのが紫式部である。
定子は第1皇子である敦康(あつやす)親王を生み、一方の彰子は敦成(あつひら)親王らを出産。定子が早くに亡くなると、彰子は敦康親王を引き取り、我が子同様に愛情を込めて育てたという逸話がある。
慣例通りならば、次の皇太子となるべきは第1皇子である敦康親王だったが、実際に皇太子となったのは敦成親王。つまり、一条天皇が寵愛した定子の子ではなく、道長の孫だった。もちろん、道長が裏で糸を引いたものであり、娘の彰子は父の非情な振る舞いに怒りを隠さなかったという。
一条天皇にも思うところはあったはずだが、道長との関係において衝突した様子は見られない。一条天皇は自ら積極的に政治を行なう姿勢を鮮明にしており、そのために内心はどうあれ、権力者・道長との協調路線を堅く守ったようである。
25年におよぶ在位の後、1011(寛弘8)年に病にかかり、出家。譲位して3日後に崩御した。
一条天皇の人柄は温厚で、学問に親しみ、特に笛が巧みだったと伝わっている。優しげな性格のためか、志した親政は公家社会、さらには庶民にも広く受け入れられたという。
一条天皇の治世下では、道長一族の栄華が最高潮を迎えたほか、さまざまな才能にあふれた人材が輩出されたのが特徴である(『続本朝往生伝』)。紫式部や清少納言、和泉式部(いずみしきぶ)といった女流作家が目覚ましい活躍をしたのも、そのひとつといえる。
なお、無類の猫好きと伝わっており、「命婦の御許(みょうぶのおとど)」と名付けた猫を飼っていたという。命婦とは従五位下以上の位階の女性のことで、御許とは身分の高い女性の敬称。人に行なう儀式を猫にも同様に行なったとする記述が藤原実資(さねすけ)の日記『小右記』に残されており、日記の中で実資は「奇怪なこと」と呆れている。飼い猫の名前としては、日本史上に残る最古のものといわれている。
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