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開発があまりに遅かった「和製バズーカ」【試製4式7cm噴進砲】

日本陸軍の火砲~太平洋戦争を戦った「戦場の神」たち~【第12回】


かつてソ連のスターリンは、軍司令官たちを前にして「現代戦における大砲の威力は神にも等しい」と語ったと伝えられる。この言葉はソ連軍のみならず、世界の軍隊にも通用する「たとえ」といえよう。そこで、南方の島々やビルマの密林、中国の平原などでその「威光」を発揮して将兵に頼られた、日本陸軍の火砲に目を向けてみたい。


        試製4式7cm噴進砲。携行時には砲身を前後の2本に分解することができた。また、タ弾(ロケット弾)の発射時には砲身後端の開放部から噴流が噴き出すので、立入禁止範囲が設定されていた。

         第1次世界大戦中に戦車が登場して以来、その戦車を撃破するには、重量のある硬い砲弾(多くはムクの金属製の実体弾)を可能な限り高速で撃ち出して装甲を貫き、車内に被害を与える徹甲弾(運動エネルギー弾)が主流だった。しかし1930年代に、本来なら放散してしまう炸薬(さくやく)の爆発力を1点に集めてコンクリートや鋼板に孔を穿(うが)つという既存の理論(ノイマン/モンロー効果など)の応用により、砲弾の重さや速度に関係なく装甲を貫ける成形炸薬弾(化学エネルギー弾)が実用化された。

         

         この成形炸薬弾は、徹甲弾が砲弾の重さや速度が大きければ大きいほど貫徹力に優れるのに対して、砲弾に充填されている炸薬が多ければ多いほど貫徹力が高いという特徴があった。

         

         より重い砲弾をより高速で撃ち出すには、頑丈な砲を造らねばならず、当然ながら砲そのものが大きく重くなる。ゆえに従来の対戦車砲は、強力なほど重く大きくなってしまい、手軽に運用などできるシロモノではなかった。

         

         ところが成形炸薬弾は徹甲弾よりも軽いうえ、低速で撃ち出しても装甲貫徹力が変わらない。日本は1942年頃にこの成形炸薬弾の構造をドイツから伝えられて、砲の構造のせいで高速の徹甲弾が撃てない山砲や歩兵砲用の成形炸薬弾を、「タ弾」の秘匿名称で生産した。

         

         この成形炸薬弾を、日本軍では噴進砲と称していたロケット砲から撃ち出す兵器がドイツのパンツァーシュレックで、1943年初期に同国から同兵器の図面がもたらされたが、パンツァーシュレックは、実はアメリカの歩兵携行対戦車ロケット発射器のバズーカ砲の模倣品である。

         

         自己推進能力を備えたロケット弾は、軽量簡易な発射器から撃ち出すことができ、その弾頭が成形炸薬弾となっていれば、射距離こそ短いものの、ひとりかふたりの兵士で敵戦車を撃破できる。アメリカ軍のM4シャーマン戦車などに苦しめられていた日本軍にとって福音のような兵器であり、ひとりの兵士で携行と射撃が可能(ただしロケット弾の輸送や装填役として補助員が同行)な試製47cm噴進砲として開発が進められた。しかし、陸軍内での対戦車兵器に対する認識の相違などから、大きな可能性を秘めた兵器にもかかわらず、戦時下の総力をあげた最優先開発とはならなかった。

         

         そのため試製47cm噴進砲は結局、「遅すぎた登場」のせいで実戦には投入されずに終戦を迎えている。

         

         しかし、従来の対戦車砲とは異なり軽量な発射器とタ弾の組み合わせなので、潜水艦による隠密輸送や空輸も容易に行える。なので、もしこの試製47cm噴進砲がフィリピンやサイパン、硫黄島や沖縄の戦いに間に合っていれば、敵戦車との近接戦闘も厭わない勇敢な日本兵気質とも相まって、アメリカ軍の戦車や水陸両用車の損害は、史実以上に大きなものとなっていたかも知れない。

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        過去記事

        白石 光しらいし ひかる

        1969年、東京都生まれ。戦車、航空機、艦船などの兵器をはじめ、戦術、作戦に関する造詣も深い。主な著書に『図解マスター・戦車』(学研パブリック)、『真珠湾奇襲1941.12.8』(大日本絵画)など。

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