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関羽が華雄を斬り、呂布が大暴れした「汜水関・虎牢関の戦い」は創作だったのか?

ここからはじめる! 三国志入門 第96回

三国志演義連環画より

「そもそも天下の大勢は、分裂が長ければ必ず統一され、統一が長ければ必ずまた分裂する・・・」という、味わいぶかい書き出しで始まる小説『三国志演義』。しかし、序盤は漢王朝の腐敗の原因やら、張角の黄巾党結成などが説明的につづられるので、いささか単調で退屈という読者もおられるかもしれない。

 

 それが、董卓(とうたく)が都を牛耳り、曹操が董卓暗殺をしくじって逃走するあたりから俄然、面白くなってくる。そして第5回、反董卓連合が結成されて汜水関(しすいかん)、虎牢関(ころうかん)の戦いが始まると、一気に熱を帯びる。序盤のクライマックスといっていい。

 

 連合軍の前に立ちはだかり、猛者たちを次々になぎ倒す豪傑・華雄(かゆう)。その華雄を関羽が酒の冷める前に斬り、武名を天下にとどろかせる(温酒斬華雄)。そして向かうは要害・虎牢関。そこを守るは華雄よりさらに強い天下無双の呂布(りょふ)。

 

 方悦(ほうえつ)、穆順(ぼくじゅん)、武安国(ぶあんこく)といった腕自慢の者たちも呂布の相手にもならず、立ちすくむ十八鎮諸侯。そこへ挑みかかるのが、張飛・関羽・劉備の三兄弟だ。三人がかりでも討てない呂布の底知れぬ武勇。そして兄弟たちの奮闘は「三英戦呂布」として語り継がれる。

 

◆正史には汜水関・虎牢関の戦いも地名もない!?

 

 ところが、この戦いはあくまで小説「演義」の話。汜水関・虎牢関の戦いは、正史『三国志』にはどこにも記されていない。それどころか、十八鎮諸侯が集ったという反董卓連合軍もフィクションである・・・そう聞いて、がっかりされる方もおられるだろうか。

 

 正史でも、西暦190年に何人かの諸侯たちが「反董卓」の旗をあげたのは事実だ。しかし、劉備をはじめ、公孫瓚(こうそんさん)、馬騰(ばとう)、陶謙(とうけん)、孔融(こうゆう)などは連合軍に名を連ねた形跡もない。とくに馬騰は西の涼州にいたので、都を越えて東へ来ることもできなかったはずだ。

 

 旗をあげた諸侯はどうしたか。彼らは都の洛陽(当時は「雒陽」)を取り囲むかたちで布陣した。まず盟主を袁紹(えんしょう)がつとめたのは正史・演義とも事実である。彼自身は最前線ともいえる河内(かだい)まで軍を進め、太守の王匡(おうきょう)と合流。その東後方の酸棗(さんそう)には曹操をはじめ、橋瑁(きょうぼう)・張邈(ちょうばく)・鮑信(ほうしん)たちが駐屯した。

 

 南の南陽には袁術(えんじゅつ)と孫堅(そんけん)が駐屯。いわば、日本でいう「信長包囲網」のような形勢が生じたのである。ところが「武帝紀」などによると、河内や酸棗に集った諸侯は董卓軍の強さを恐れて攻めようとせず、連日酒盛りをやるばかり。

 

西暦190年、洛陽周辺の地形図 作成:ミヤイン(参考『中国歴史地図集 第二冊 秦・西漢・東漢時期』中国地図出版社 他)

 

 痺れを切らした曹操が、ようやく鮑信・張邈とともに榮陽(けいよう)の汴水(べんすい)まで進軍したが、董卓配下の徐栄(じょえい)に大敗を喫した。同じく南方からは孫堅が単独で進軍するが敗れて撤退。そして逆に董卓軍が攻勢に出て洛陽の北にある河内の王匡の軍勢を襲い、撃退している。

 

 戦局を変えたのは翌191年、孫堅軍が梁(りょう)県の陽人(ようじん)でリベンジに成功し、董卓軍の指揮官のひとり、華雄(かゆう)を討ったことだろう。この一戦で不利を悟った董卓は、洛陽の町を焼き払って長安に撤退する(孫堅伝)。しかし、やがて戦況は膠着。大将の袁紹と副将格の袁術の対立が原因で、連合軍は目的を果たせず解散する。

 

 このとおり、実際の戦いは汴水・梁県・陽人・河内での局地戦だった。つまり汜水関・虎牢関の戦いはなかった。それどころか、正史『三国志』にはこれらの地名すら登場しない。魏志「文帝紀」に曹丕が作った歌の中に古事として「虎牢」と出てくるだけだ。

 

◆なぜ汜水関・虎牢関の戦いが生まれたのか?

 

「虎牢関」ではなく「虎牢」という固有名詞は『春秋左氏伝』などにあり、周の時代から存在したようだが、時代を経るごとに名前が変わった。漢の時代には別の地名が付されていたようだ。

 

 また7世紀には唐の太祖・李世民(りせいみん)が竇建徳(とう けんとく)と「虎牢」で戦ったとの記録がある。ただし、それが記される『新唐書』は1011世紀の成立。そのように、現れたり消えたりした地名「虎牢」だが、清代以降に「虎牢関」として地名が復活する。現在の中国において黄河の畔に、確かにその地名は存在し、また古戦場として扱われている。

 

 しかし、実際に関所としての「虎牢関」は存在しなかった。「虎牢」という地名をもとに、元・明以降に成立した小説『三国志平話』で劉備たちの活躍をアツく描く舞台として設定されたと考えられる。

 

「汜水関」も同様である。歴史書に「汜水」という川は出てきても「汜水関」は見当たらない。あくまで付近を南北に流れる汜水という流れの近くの関所や砦というイメージでつくられたと思われる。

 

 実は『三国志平話』では虎牢関の戦いしか描かれていない。華雄も登場しない。汜水関自体が、後から成立した『三国志演義』で、関羽の活躍を増やすために追加されたもののようだ。

 

 この2つの関所は「演義」では別々の関所、つまり汜水関を突破すると虎牢関が現れるかのように描かれるが、実際には、洛陽の東の玄関口を守るための機能から同じ場所と考えてよい。

 

 難敵・董卓や呂布の前に立ちはだかる「壁」として立ちはだかる攻防の舞台。それが知られるあまり、現実の地名として「虎牢関」が復活・定着したのは『三国志演義』の影響力の強さを物語る。

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上永哲矢うえなが てつや

歴史著述家・紀行作家。神奈川県出身。日本の歴史および「三国志」をはじめとする中国史の記事を多数手がけ、日本全国や中国各地や台湾の現地取材も精力的に行なう。著書に『三国志 その終わりと始まり』(三栄)、『戦国武将を癒やした温泉』(天夢人/山と渓谷社)、共著に『密教の聖地 高野山 その聖地に眠る偉人たち』(三栄)など。

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