後陽成天皇も「反対」していた秀吉の朝鮮出兵
史記から読む徳川家康㊳
なお、秀吉も同月1日に京を出発する予定だったが、眼病をわずらい、治療のために遅らせたらしい。実際に秀吉が京を出発したのは同月26日だった。この時、後陽成(ごようぜい)天皇や公家衆らが出陣する秀吉を見送ったという。
翌月12日に、小西行長(こにしゆきなが)らが第一陣として釜山浦(ふざんほ)に到着。同年5月3日には、小西行長の軍勢に加藤清正らが合流し、漢城を攻略するなど、当初は破竹の勢いだった(『西征日記』)。
一方、名護屋に到着した秀吉は、自身の朝鮮への渡海を検討している。しかし、前田利家(まえだとしいえ)と家康に止められたため断念した(『鹿苑日録』「細川家文書」)。秀吉ほどの人物が渡海するには、それなりの人数を動かす必要があるが、船舶数が足りないなど海上輸送の面でさまざまな不都合があり、難しかったようだ。
また、思わぬ突風が吹く季節という背景もあり、利家と家康は秀吉の安全を考慮した上で制止したという。この裏では、秀吉の渡海を切望していた石田三成(いしだみつなり)と、利家・家康との間で何度か議論が行なわれている。
同年6月3日、朝鮮に在陣している諸将に、秀吉は兵力の再編を指示(「毛利家文書」)。同月15日には、行長や黒田長政(くろだながまさ)らが平壌を攻略している(『乱中雑録』)。
同年7月22日、母・大政所の危篤を知らされた秀吉は、急ぎ大坂城へ戻ることとなった。利家と家康が留守を預かることになったが、大政所はその日のうちに亡くなったという(『多聞院日記』『毛利家文書』)。同月29日に追善(ついぜん)供養を行なった秀吉は、10月1日に再び大坂を発ち、名護屋に向かっている(『兼見卿記』)。
なお、同年9月初め頃、後陽成天皇は秀吉に名護屋下向を延期するよう要請している。この引き止めがあったことで、秀吉の出発は10月まで延ばされたらしい。後陽成天皇は朝鮮出兵に反対の姿勢を明らかにしており、秀吉の渡海についてはなおさら考え直すよう引き止めていた事実がある(「後陽成天皇宸翰御消息」)。
同年12月8日、天正から文禄に改元が行なわれた。すでに譲位していた正親町(おおぎまち)上皇は、翌年1月5日に崩御している。
翌1593(文禄2)年6月28日、名護屋城で瓜畑遊びが行なわれた。退屈しのぎの余興だったようだが、太閤・秀吉は瓜売り、前田利家は高野聖(こうやひじり)、家康は簣(あじか)売りと、それぞれの扮装をして売り歩いたという(『太閤記』『大和田重清日記』)。
同年8月3日、秀吉のもとに拾(ひろい/のちの秀頼/ひでより)誕生という知らせがもたらされた(「山縣公爵家文書」)。秀吉は再び名護屋から大坂に戻っている。
同月末頃、後を追うように家康も名護屋を去り、大坂に到着(『家忠日記』)。その後はしばらく、秀吉や前田利家らと茶会を開くなどして過ごしている(『駒井日記』)。
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