『復讐するは我にあり』のモデルは小学生の機転で逮捕された【西口彰事件】後編
世間を騒がせた事件・事故の歴史
前編〝史上最高の黒い金メダルチャンピオン〟と呼ばれた男はなにをやらかしたのか?【西口彰事件】の続き
1963年10月に福岡県内で専売公社職員と、その仕事仲間であるトラック運転手の2人の男性が殺害され、金銭が強奪された事件が起きた。警察は容疑者として前科のある運転手・西口彰(にしぐちあきら)を指名手配した。この人物こそ、のちに佐木隆三の小説『復讐するは我にあり』の主人公のモデルとなった殺人者である。翌月、静岡県で強盗殺人事件が発生する。貸席「ふじみ」を営む母娘が絞殺され、犯人はその家の電話加入権や貴金属を質入れして逃走したのである。こちらの事件でも西口による犯行だと断定された。犯人がいつどこで同様の手口で人を殺めるかわからない状況のなかで、東京・豊島区の集合住宅で、独居の老弁護士Iさんが殺害された。警察は西口の関与を疑ったが、決定的な証拠は得られなかった。福岡・浜松・東京、3つの事件が未解決のまま年を越すことになった。西口はどこで、何をしていたのか?
※文中敬称略
■I弁護士の留守番、代理人を名乗る男が
1964年の元日の新聞は、弁護士殺人事件の続報を伝えている。被害者Iさんの家には12月22~23日ころ、中年の男が出入りしており、来訪者には「留守番」を名乗って応対していたが、この人物が室内では和服姿でいたこと、Iさんに弁護士費用を支払いにきた依頼者から、その金を受け取ったこと、その依頼者を自ら訪ね、代理人として詐欺を働こうとしたことなどがわかったのだ。また、Iさんはタバコを吸わないが、室内には20本程度の吸い殻が残っていたことも明らかになった。犯人はかなり大胆に、積極的に動いていることがわかる。
■弁護士を名乗り教誨師の家に
1月4日、新聞各紙は1面で西口逮捕を報道した。そのきっかけを作ったのは、当時小学5年生の女の子だった。1月2日、熊本県玉名市の立願寺の敷地内にある住職宅に、あらかじめ電話でアポを取ったうえで、「東京都文京区の弁護士・川村」を名乗る男が訪ねてきた。住職・Fさんは福岡刑務所教誨師も務めており、死刑囚の冤罪救済活動をしている人物だった。弁護士バッジをつけた川村はその活動に協力したいと申し出たのだ。Fさんはその男を家内に招き、食事や酒を振る舞うなどした。自称・川村は人権や死刑制度について熱弁していたが、その言動はピントがズレていることが多く、Fさんには不可解に感じていたという。
そうこうするうちに、Fさんの娘である小学5年生のRさんが家族にそっと耳打ちした。「あの人、西口じゃない?」。Rさんはたまたま西口と似た名前の友達がいたことから、西口彰のポスターが気になり、顔の特徴を記憶していたのだ。確かに、言われてみれば指名手配犯と特徴が一致する。言動も怪しい。Fさんはその人物が西口に間違いないと判断した。極めて危険な行為だといえるが、Fさんとその家族は、弁護士・川村を名乗る西口らしき男を家に引き止めて、警察に通報しようと考えたのだ。そのため、夜になって旅館に戻るという男を、「今晩はうちに泊まってください」と引きとめ、寝床を用意した。そして、7歳児、4歳児も含む家族は鍵のかかる部屋に集まり、息を潜めた。隣の部屋に強盗殺人犯らしき人物がいる。その恐怖と緊張はいかばかりだろうか。
そして、23時すぎにFさんの妻が家を抜け出して派出所に通報したが、なかなか真剣に取り合ってもらえず、「夜が明けたら対応する」という調子だった。あけて午前1時半頃、恐怖に震える22歳の長女が矢も盾もたまらず家を抜け出し、近くのタクシー会社に駆け込み、そこの電話から玉名署に電話を入れた。こうして、Rさんが「西口では?」と気づいてから約7時間後、未明になって警察が家の回りを包囲する状態となった。
■逮捕された西口は反省の色なし
しかし、警察はすぐに家の中に踏み込むことをせず、夜明けを待った。朝、Fさんは目を覚ました自称・川村を近くの岩風呂に誘い出した。その過程で警官数名もさり気なく入浴し、男の身体的特徴をさりげなく確かめたという。そして、いったんFさん宅に戻った自称・川村が家を出たところを取り囲み逮捕に至った。やはりその男は連続強盗殺人犯の西口彰だった。また、指紋や筆跡の一致から、年末の弁護士殺しの事件も西口の仕業だと断定。つけていた弁護士バッジはIさんのものだった。
身柄を拘束されてからの西口は反省の色が見られず、自らの逃亡劇を誇るように自供を始めたという。当時の報道ではIさんを殺害したのは12月20日ごろで、23日ごろまでは遺体が放置されたアパートに滞在し、来客には留守番を名乗って応対していたと供述している。また、この間にIさんの依頼客や関係者に接触し、娘に縁談を世話すると持ちかけるなどして、手練手管で金をだまし取っていたこともわかる。29日まで都内に潜伏し、名古屋を経て大晦日に臨時急行列車で南下し、元日に九州に入った。本人曰く、都内では数度、職務質問を受けたがその都度切り抜けたという。警察の面目は丸つぶれだ。
■判明した凶悪犯の逃亡生活
その後、本格的な取り調べや警察の捜査により、西口の逃亡生活の全容が明らかになった。それをトレースすると、この犯罪者の特異性が際立つ。
西口彰・逃亡と犯行の足取り(1963年10月~1964年1月)
1963年10月18日(福岡)
福岡県苅田町・香春町で専売公社職員と運転手の男性2人を殺害し、約27万円を奪って逃走。
10月19日前後(福岡→佐賀)
福岡市内の旅館で自分の顔写真入りの指名手配記事を新聞で知り逃亡を決意。佐賀県唐津市の唐津競艇で2日間で20万円前後の利益を得る。
10月下旬(九州→四国・本州)
福岡でプロ野球を観戦したのち本州方面へ移動。宇高連絡船の甲板に靴を揃えて置き、自殺を装う。
10月下旬~11月中旬(西日本各地)
岡山・神戸・大阪・京都・名古屋を転々とし、「京都大学の高橋」などと大学教授を名乗って旅館に投宿。
11月18~19日(静岡・浜松)
浜松市の貸席「ふじみ」で女将と母親を絞殺し、貴金属や衣類、電話加入権を処分して逃亡資金を得る。
12月上旬(千葉・福島・北海道など)
弁護士を名乗り、千葉地裁・千葉刑務所の待合室などで罰金支払いに来た人や家族に近づき現金を詐取。千葉弁護士会館で名簿を盗み、福島県の弁護士事務所から弁護士バッジを盗むなど、北海道門別町や東京、栃木でも同様の手口で金をだまし取る。
12月中旬~下旬(東京)
東京地方裁判所の待合室で保釈金名目の詐欺を行い、豊島区の弁護士を「民事訴訟の依頼」を装って訪ね、自室で絞殺。弁護士バッジや腕時計、現金などを奪い、数日間とどまって依頼人らからも金をだまし取る。
12月末~1964年1月1日(本州→九州)
都内で潜伏を続けたあと、名古屋などに立ち寄りながら大晦日の列車で南下し、元日に九州入り。
1964年1月2日(熊本・玉名市)
熊本県玉名市の立願寺に「弁護士・川村角治」と名乗って住職に接近し、冤罪救済活動への協力を申し出る。
1月2日夜~3日未明(立願寺内)
家族が「西口ではないか」と疑い、危険を承知で家に泊めたうえで深夜に相次いで警察に通報。未明には警官隊が寺の周囲を包囲する体制となる。
1月3日朝(逮捕)
待機していた警察官らが身柄を確保。指紋照合などにより西口彰本人と確認され、一連の強盗殺人と詐欺の被疑者として逮捕された。
こうして、福岡二人殺しから78日間続いた逃亡劇は終わりを告げた。
■殺人、詐欺、窃盗の罪の報いは?
一連の言動から、西口は詐欺的なセンスの持ち主で、大胆に人の懐に飛び込み、親しくなってから殺害の上で金品を奪い取るという犯行を重ねた。また、殺人は福岡での2名殺害事件が最初だったが、以後も短期間で3名を殺していることから、人命を奪うことに対して躊躇や罪悪感がなかったとみられる。事実上、熊本の家族の勇気が逮捕につながったこの一家とて殺される可能性は高かったと考えるのが妥当だろう。
西口は殺人5件、詐欺10件、窃盗2件で起訴された。裁判では検察の論告で「史上最高の黒い金メダルチャンピオン」と評した西口に死刑を求刑。地裁の判決文では「悪魔の申し子」と形容しつつ、死刑判決が言い渡された。死刑が確定したのは1966年(昭和41)8月15日。執行されたとき、西口は44歳だった。

イメージ 写真/AC