ブルーインパルスでも活躍した世界的傑作戦闘機【ノースアメリカンF-86セイバー】
ジェットの魁~第1世代ジェット戦闘機の足跡~ 【第25回】
ジェット・エンジンの研究と開発は1930年代初頭から本格化し、1940年代半ばの第二次世界大戦末期には、「第1世代」と称されるジェット戦闘機が実戦に参加していた。この世代のジェット戦闘機の簡単な定義は「1950年代までに開発された亜音速の機体」。本シリーズでは、ジェット戦闘機の魁となったこれらの機体を俯瞰(ふかん)してゆく。

飛行中のノースアメリカンF-86セイバー。抽象的な表現だがヒコーキ(航空機ではない!)の世界では、カッコいいヒコーキは性能も良いという通説があるが、本機はまさにこの喩えのごとくといえよう。
アメリカ海軍がノースアメリカン社で開発させていたFJ-1フューリーに着目した陸軍航空軍は、同機の陸軍型P-86の開発を要請した。しかし同社の首席設計者で傑作レシプロ戦闘機のP-51マスタングを手がけたエドガー・シュミュードは、敗戦国ドイツから得た資料に基づいて、高速時における後退翼の優位性を確信し、陸軍航空軍に対して後退翼化を求めた。
これを受けた陸軍航空軍は後退翼化を承認し、かくしてFJ-1とはまったく異なる、後退翼を備えたジェット戦闘機が開発されることになったが、名称はP-86のままであった。試作機XP-86の初飛行は1947年10月1日。
その高性能に喜んだ陸軍航空軍は実用化を急がせたが、やがて空軍として独立し、1948年6月からP-86は「追撃機」を示す「P」に代えて、戦闘機を示す「F」に機種記号が変更されF-86となった。そして与えられたニックネームはセイバー(西洋の刀の一種)。
こうしてセイバーの武勇伝が始まる。
まず朝鮮戦争では、北朝鮮や中国がソ連製の後退翼ジェット戦闘機MiG-15ファゴットを投入し、国連軍側のF-51マスタングやシーフューリーといったレシプロ戦闘機や、F-84サンダージェットやF9Fパンサーといった直線翼ジェット戦闘機では圧倒的に不利になると、対抗策として急遽実戦投入された。
実はF-86とMiG-15はさほど性能差があるわけではなくほぼ互角で、双方が部分部分でやや秀でたところがある程度の関係だった。ただ、前者が汎用の制空戦闘機として設計されていたのに対し、後者は爆撃機などに対する迎撃戦闘機としての性格が強かったこと、前者のパイロットは練度が高い者が多かったが、後者のパイロットには練度に難がある者もいたことなどもあり、キル・レシオ(両者の撃墜比率)は4対1。つまりF-86はMiG-15を4機撃墜すると1機がやられるというレートだった。
また、1958年8月23日に勃発した第二次台湾海峡危機に際して、同年9月24日に温州湾上空で戦われた空戦では、中華民国空軍の38機のF-86Fと中華人民共和国空軍の53機のMiG-17フレスコが交戦。F-86Fはアメリカから供与されたサイドワインダー空対空ミサイルの初期型を使ってMiG-17を4機撃墜している。
なお、この空戦で中華民国空軍はサイドワインダーで撃墜した4機も含めて9機のMiG-17を撃墜し、F-86Fの被害はゼロを主張。一方、中華人民共和国空軍はF-86Fを2機撃墜し2機に損傷を与え、MiG-17が1機失われたと主張している。
F-86シリーズは運動性能に優れているため、一時期は世界各国のアクロバット飛行チームで使用された。わが国が誇るブルーインパルスも、F-86Fを1960年から1981年にかけて使用している。
ノースアメリカンF-86セイバー・シリーズは、第1世代ジェット戦闘機の最高傑作と言っても過言ではないかもしれない。