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【江戸の絵師列伝】浮世絵師史上最大のアイデアマン・奥村政信 新感覚の絵を世に送り出した実力派


柱に貼って楽しむ柱絵、三枚続きの三幅ものなど次々と新しいスタイルの浮世絵を生み出したのは、浮世絵師兼版元の奥村政信だった。


■有名絵師の模写で腕を磨く

 

 本家●●、元祖●●、●●本舗など、うちが最初に始めたということを主張するための肩書である。実は浮世絵師でも自分が最初であること強調するために「根元」という文字を刷り込んだ人物がいる。誰か? それが、奥村政信である。

 

 奥村政信は、貞享3年(1686)、江戸で生まれた。正式に絵を学んだことはない。しかし、若い頃から菱川師宣や鳥居清信などの名だたる浮世絵師の作品を模写して腕を磨き、十代から挿絵などを手がけていたという説もある。元禄14年(1701)、鳥居清信の作品を模写した『娼妓画牒』で世に出た。以降挿絵や絵本の世界で活躍し、徐々に活躍の場を広げていく。

 

 このころ流行り始めた刷り物の技術に紅絵や漆絵がある。紅絵とは、墨一色で刷った絵に紅などの色を一枚一枚着色したもののことである。さらに紅絵の黒い部分に膠を塗って光沢を出したものを漆絵と呼ぶ。この技法は、政信が活躍しはじめた享保の初めころ和泉屋権四郎という版元が始めたとされる。政信はこうした新しい技術を積極的に取り入れていった。ここから一歩進んで、版木に見当という目印をつけて墨一色だけでなく、2色目として紅を入れることが多かったことから紅刷絵と呼ばれる絵でも多くの作品を残している。その上冊子だけでなく、1枚ものの摺り絵や、肉筆画などにも積極的に進出していった。

 

 他人が生み出した技術を取り入れて行くだけでなく、自らも新しいものを次々と誕生させた。たとえば、小さな箱に貼り付けるための貼箱絵を生み出した。さらには1枚でも十分鑑賞に堪える絵を3枚つなげることでよりスケールの大きな絵を楽しむことができる三枚形式の絵を発表する。こうした絵は「三幅対もの」と呼ばれており、その後たくさん作られるようになった。

 

 さらに、柱絵と呼ばれる細長い絵も編み出した。これはその名の通り柱に貼り付ける絵で、柱の傷などを隠すのにぴったりだと好評を得ると、次々と真似をする者が現れた。こうした偽物と自分の作品を区別するために「はしらゑ根元」という文字を画面に入れるようになった。このころ西洋で発明された遠近法が、中国の版画を経由して日本に入ってきた。奥村政信はすぐにこの新しい技術に果敢にチャレンジし、完全ではないが自分のものにして「浮絵」と名付けて売り出した。

 

 奥村政信が次々と新しいスタイルの作品を生み出すことができたのは、彼が単なる浮世絵でなかったからだ。彼は享保の頃から奥村屋源八という版元の経営に参画していた。売れると思ったからこそ、柱絵や三幅対もの、浮絵などの自らが手掛けた新しい浮世絵を世に送り出していったのである。

 

 奥村政信が浮世絵にもたらした影響は技術だけではなかった。当時流行していた俳諧に通じていた奥村政信は、俳諧の世界で試みられていた古典の世界を現代に置き替えることを、絵の中でも実践した。また、絵に俳句を添えることで情緒的な世界を展開していった。奥村政信のこうした試みは、次世代の鈴木春信らに多大なる影響を与えたといわれている。

二代目市川海老蔵の助六
柱絵と呼ばれる作品のひとつ。海老蔵という名は現在、團十郎になる前に名乗ることになっているが、かつては、團十郎という名を譲った後、名乗ることが多かった。二代目海老蔵は二代目の團十郎。若い頃演じた助六で人気が出た。
東京国立博物館蔵/ColBase

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加唐 亜紀

1966年、東京都出身。編集プロダクションなどを経てフリーの編集者兼ライター。日本銃砲史学会会員。著書に『ビジュアルワイド図解 古事記・日本書紀』西東社、『ビジュアルワイド図解 日本の合戦』西東社、『新幹線から見える日本の名城』ウェッジなどがある。

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