北辺の空を守った「核弾頭の毒針を持つサソリ」【ノースロップF-89スコーピオン】
ジェットの魁~第1世代ジェット戦闘機の足跡~ 【第14回】
ジェット・エンジンの研究と開発は1930年代初頭から本格化し、1940年代半ばの第二次世界大戦末期には、「第1世代」と称されるジェット戦闘機が実戦に参加していた。この世代のジェット戦闘機の簡単な定義は「1950年代までに開発された亜音速の機体」。本シリーズでは、ジェット戦闘機の魁となったこれらの機体を俯瞰(ふかん)してゆく。

エシュロンを組んで飛行中のF-89スコーピオン。主翼端に取り付けられた増槽の前部にマイティマウス空対空ロケット弾52発(両主翼合計104発)が収納されており、写真でもその開口部が見える。目立つ色彩の塗装は極地で不時着した際に発見しやすくするためのもの。
アメリカは第2次世界大戦に参戦すると、イギリスと密接な協力体制を構築したが、その一環に軍事技術交流があった。軍事技術の研究・開発においてイギリスは先進国だったが、うち続く激戦により既存の兵器生産で手一杯になってしまい、せっかく開発した新兵器や新技術を量産化するのが難しかった。そこで、そういった技術をアメリカに提供し、「デモクラシーの兵器工場」を自負するアメリカが、量産したり改良を加えるということが行われたのだ。
一連のそのような流れの中で、夜間戦闘機の先進国だったイギリスから高性能の機載レーダーの技術提供を受けたアメリカは、第2次世界大戦後期に、当時、世界最強の夜間戦闘機で「夜間戦闘機のキャデラック」のあだ名で呼ばれることもあったノースロップP-61ブラックウィドウを戦力化した。
そして同大戦中に、将来の航空エンジンとしてジェット・エンジンの可能性が高く評価されると、アメリカ陸軍航空軍はそれを用いた戦闘機や爆撃機の開発を一挙に推進したが、その中に夜間戦闘機(のちの全天候戦闘機)が含まれていた。同航空軍は1945年8月28日、ブラックウィドウの後継となる夜間戦闘機の要求性能仕様を交付。その結果、ノースロップ社のF-89スコーピオンが採用となった。
初飛行は1948年8月16日のことで、上に跳ね上がったデザインの機尾に取り付けられた、上端にT字型に水平尾翼を備えた垂直尾翼が与える外観的印象と、ノースロップ社の前作の夜間戦闘機の愛称が有毒な節足動物(毒グモ)のブラックウィドウ(和名:クロゴケグモ)だったことを合わせて、やはり有毒な節足動物であるスコーピオン(和名:サソリ)と命名されたという。
初期型は諸々の問題を抱えていたが、逐次改修が加えられて信頼できる機体となったスコーピオンは、左右の主翼に装着された増槽兼ロケット弾ポッドに52発ずつ、合計104発ものマイティマウス無誘導空対空ロケット弾を搭載し、敵爆撃機の迎撃を主任務とした。さらに後期には、無誘導空対空核ロケット弾AIR-2ジニーも搭載するようになった。
ジニーが無誘導とされたのは、敵のジャミング(電波妨害)やデコイ(赤外線欺瞞装置)の影響を受けることなく狙った空域まで確実に飛翔させるためで、目標機に直接命中せずとも空中核爆発に巻き込んで撃墜するという、敵爆撃機の核爆弾による爆撃を確実に阻止する「目には目を」ならぬ「核には核を」の究極の空対空兵器だった。
そのうえ、スコーピオンは航続距離も長かったので、当時のアメリカの仮想敵国だったソ連機が侵入してくる広大な北極圏空域の戦闘空中哨戒任務には最適の機体として、高く評価された。
このように、スコーピオンは強力なジニーが搭載できて航続距離も長いおかげで、ジェット戦闘機としては古いデザインの直線翼だったにもかかわらず、1969年まで運用が続けられた。
なお、総生産機数は1052機であった。