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“劣勢”の九州説は「謎のエリア発掘」で逆転なるか 「邪馬台国=吉野ヶ里」の可能性をさぐる 【古代史ミステリー】

日本史あやしい話


近年、「謎のエリア」と呼ばれるところから、新たな石棺墓が発掘されて話題を呼んだ吉野ヶ里遺跡。そこは30数年前、「これこそ邪馬台国の痕跡」だと、世間を賑わせたところでもあった。今は117haもの広大な歴史公園として蘇っているが、本当に、そこに邪馬台国があったのか、あらためて検証し直してみたいと思うのだ。


 

■古代史ファンが色めきたった平成元年のニュース

 

 今から30数年前のことを思い起こしていただきたい。時は平成元(1989)年2月23日のこと。この日の朝日新聞の朝刊に、目を疑うような記事が掲載されていたからである。

 

 その一面に、「邪馬台国時代の『クニ』」との大見出しがデカデカと掲載されていたから、多くの読者が驚いたに違いない。言うまでもなく、佐賀県吉野ヶ里町と神埼市にまたがる吉野ヶ里遺跡の発掘に関するニュースである。

 

 大見出しばかりか、「最大級の環壕集落発掘」や「望楼や土塁確認」といった文面も、いかにも「どうだ?!」と言わんばかりに紙面を賑わしていた。それが暗に意味することとは、邪馬台国の比定に欠かせない「宮室、楼観、城柵」の3点セットのうち、楼観と城柵の痕跡が見つかったことを示している。

 

「邪馬台国がどこにあったのか?」。その比定地をめぐって、侃侃諤諤の議論が沸騰していた頃だったこともあって、俄然、多くの古代史ファンが、色めき立ったものであった。

 

■魏志倭人伝との一致に大コーフン、歴史テーマパークになった吉野ヶ里

 

 『魏書』倭人伝を見てみよう。その中ほど、卑弥呼が王に共立されたという記事の後に、「起居する宮室や楼観(ろうかん)には城柵が厳しく設けられ、常に見張りの兵が警護していた」という旨が記されている。

 

 ここに記された楼観とは物見櫓のことで、発掘された集落跡と見られるところから6本の柱跡が出土。さらに、杭を逆さまに立てかけて敵の侵入を防ぐ柵まで発見されている。そればかりか、外堀と内壕が二重に張り巡らされ、大型の高床式倉庫や竪穴式住居、墳丘墓、祭殿までもが立ち並んでいたことが判明。

 

 これが前述の文面と一致したわけだから、色めき立ったのである。しかも、その遺構は実に壮大。「これこそ邪馬台国の痕跡」と思うのも、無理のない話であった。

 

 平成3(1991)年に特別史跡に指定。以降、あれよあれよと言う間に歴史公園としての整備がなされ、物見櫓や竪穴住居、高床式倉庫、環壕、逆茂木なども多数復元されて、巨大な歴史テーマパークとして蘇ったのである。

 

 意外なところでは、平成182006)年に、日本百名城にも選定された。城柵が設けられたところから、防御に長けた城とみなされたからなのだろうか。もちろん、日本最古の城である。

 

■時期が一致せず…「ただの近国」扱いに

 

 では本当に、ここに邪馬台国があったのだろうか? ズバリ言って申し訳ないが、現在、ここに邪馬台国があったと信じる識者は、実のところそう多くない。この環壕集落が栄えていた時代と、邪馬台国が存在していた時代が、微妙ながらも一致しないからである。

 

 この集落が出現し始めたのは、弥生時代が始まる紀元前8世紀頃(縄文時代にもわずかながらも集落はあったようである)で、紀元3世紀に入って最盛期を迎えたものの、3世紀中期から始まる古墳時代を迎える頃には、この丘陵部の環壕も埋め立てられて埋没。多くの人々が、低地へと移動していったことが確認されたからである。

 

 3世紀中頃といえば、卑弥呼の死の前後のこと。男王を経て、跡を継いだ卑弥呼の宗女・ 台与(壱与)が266年に西晋に朝貢していたとみなせば、邪馬台国は少なくとも3世紀中頃を過ぎてもなお、存在していたはずである。

 

 そのため、ここは邪馬台国を取り巻く近くの国の一つであるとみなされることが多くなったのだ。

 

筑後川北岸全域を邪馬台国とみなせば、可能性アリ?

 

 ただし、考古学者の奥野正男氏がいうように、当地をも含む筑後川北岸全域を邪馬台国とみなせば、話は別である。そこには、安本美典氏が邪馬台国に比定する甘木朝倉(あまぎあさくら)地方も含まれているからだ。

 

 同地は、奈良県大和地方とそっくりな地名がひしめいていることでも知られるところで、筆者も密かに、朝倉市にある平塚川添遺跡に注目するところである。

 

 何はともあれ、今回はこの吉野ヶ里遺跡を通じて邪馬台国の在処を探ってきたが、邪馬台国論争に関しては、今もってなんら進展を見ないというのが現実。そんな中、この吉野ヶ里遺跡でも、近年「謎のエリア」と呼ばれてきた「北墳丘墓」の西側で、新たに石棺墓が発掘されて、再び世間を賑わしたようだ。

 

 そこからどれほどのことが判明するのかはわからないが、さらなる発掘によって、多少なりとも真相が明らかになることを期待したいと、切に願うのである。

 

吉野ヶ里遺跡に再現された楼観などの建物群と、赤々と沈む夕日/撮影・藤井勝彦

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藤井勝彦ふじい かつひこ

1955年大阪生まれ。歴史紀行作家・写真家。『日本神話の迷宮』『日本神話の謎を歩く』(天夢人)、『邪馬台国』『三国志合戰事典』『図解三国志』『図解ダーティヒロイン』(新紀元社)、『神々が宿る絶景100』(宝島社)、『写真で見る三国志』『世界遺産 富士山を行く!』『世界の国ぐに ビジュアル事典』(メイツ出版)、『中国の世界遺産』(JTBパブリッシング)など、日本および中国の古代史関連等の書籍を多数出版している。

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