優秀機ながら第2次世界大戦には間に合わなかった【ロッキードP-80シューティングスター】
ジェットの魁~第1世代ジェット戦闘機の足跡~ 【第5回】
ジェット・エンジンの研究と開発は1930年代初頭から本格化し、1940年代半ばの第二次世界大戦末期には、「第1世代」と称されるジェット戦闘機が実戦に参加していた。この世代のジェット戦闘機の簡単な定義は「1950年代までに開発された亜音速の機体」。本シリーズでは、ジェット戦闘機の魁となったこれらの機体を俯瞰(ふかん)してゆく。

飛行中の実験試作機XP-80A。P-80シリーズのトレードマークともいえる翼端燃料タンクが取り付けられていない。なおXP-80Aは2機が生産された。
アメリカ陸軍航空軍は第2次世界大戦中の1943年6月、ロッキード社に対してジェット戦闘機の開発を要請した。これを受けた同社では、首席設計技師を務めていたクラレンス・レオナルド“ケリー”ジョンソンが設計をおこなった。傑作レシプロ双発戦闘機として知られるP-38ライトニングを設計し、本機の設計に際して開設された同社の特殊航空機設計部門スカンク・ワークスの初代責任者として、後年、F-104スターファイター、U-2ドラゴンレディ、SR-71ブラックバードといった傑作機を開発するアメリカ航空機設計界の鬼才である。
一説によるとジョンソンは、10日ほどの短期間でP-80の制式番号を付与された本機の設計を終え、急ぎ試作1号機を製造。1944年1月8日、初飛行に成功している。なお、この試作1号機にはイギリス製のジェット・エンジンであるデハヴィランド・ゴブリンが搭載されていたが、試作2機めからはアメリカ製のアリソンJ-33ジェット・エンジンが搭載された。その他の理由もあって重量の増加なども生じたため、一部に改設計が施されている。
シューティングスター(流星)の愛称を与えられたP-80は、1945年2月から量産機の部隊配備と訓練が進められた。しかし第2次世界大戦で実戦に参加することはついぞなかった。
また、P-80にまつわる悲劇的な逸話として、テスト・パイロットを務めていた40機撃墜のアメリカ航空史における最多撃墜エースであるリチャード・アイラ・ボング陸軍少佐が、1945年8月6日に本機の離陸時の事故で死亡したことがあげられる。奇しくもこの日は史上初めて原子爆弾が実戦使用(広島)された日であり、彼の撃墜記録は本機と同じロッキード社の同じ設計者ジョンソンが生み出したP-38で樹立されたという奇妙な暗合がある。
第2次世界大戦後の1947年9月、アメリカ陸軍航空軍が陸軍から独立してアメリカ空軍となった。これにともない、戦闘機の接頭記号がそれまでの「P(Pursuit aircraft「追撃機」の頭文字」から「F(Fighter「戦闘機」の頭文字) 」へと変更になり、P-80もF-80となった。
1950年6月に朝鮮戦争が始まると、直線翼なのですでに旧式化していたP-80も実戦に投入された。しかし後退翼を備えるMiG-15ファゴットとの空戦では不利で、対地攻撃などで活躍している。
F-80の派生型としてタンデム複座のTF-80C練習機が開発され、後にT-33と改称されたが、本機は傑作練習機としてアメリカの同盟各国で長らく使用された。日本の航空自衛隊も、1954年に供給を受けて「若鷹」の独自愛称を付与。川崎航空機でライセンス生産がおこなわれ、2000年に全機が退役している。
なお、航空自衛隊ではアメリカからの供与機68機に加えて、ライセンス生産機210機の計278機のT-33を保有した。