「古代出雲王国」の大いなる謎 日本神話は果たして“おとぎ話”か“脚色された史実”か?
「空白の4世紀」と弥生王国の謎
古墳時代の重要な国家形成のプロセスは弥生時代にあります。弥生時代とは単に金属器の使用や稲作の始まりではなく、激動の時代だったことがわかってきました。そして大和王権成立前には出雲と呼ばれる勢力が広範囲を治めていたのではないかと思われるのです。
■現在の出雲地域は弥生時代の王国中心部だったか?
驚くほど発達した最近の「人ゲノム」の研究で、縄文時代と弥生時代の端境期に急激な人口減少があったことが指摘されています。
その原因は急な寒冷化による食料不足、またそれに端を発して大陸や半島から渡来した人々がいたことによる伝染病の蔓延など、さまざまな説がありますがまだ真実はわかっていません。今から二千数百年ほどの昔ですから、弥生時代が始まるころであるといえます。
単純にストーリーを創れば、「温暖だった縄文時代が地球の急激な寒冷化を迎え、採集狩猟生活が破綻して食糧不足に縄文人は直面していた。そのころ大陸方面から温暖な地を求めて大勢の渡来人が上陸し、同時に縄文人が抗体を持たない感染症も持ち込まれた。食糧不足で自己免疫力の下がっている縄文人に大打撃を与え、一挙に人口が減ってしまった。そして渡来人による弥生時代が始まった・・・!」と、こんな感じでしょうか。まあそんなに単純ではないと思いますが、流れとしてはあり得るのかなと思います。
島根半島に抱かれるように中海(なかうみ)や宍道湖(しんじこ)を持つ島根県東部は、渡来人にとって最良の到着港ではなかったでしょうか。まだ対馬海域の強い潮流をコントロールできなかった時代、逆に潮の流れを利用して到着するにはちょうど良い場所だったのではなかったでしょうか? ここに弥生時代の大きな邑国が誕生するのは自然なことだと思えます。
突然ですが、皆さんは神話と聞いてどう感じますか? 古代人の夢物語で自分たちの先祖を神として称えるお話だと思うかもしれません。私もそう思います。しかし、架空の夢物語だと思われていたトロイアの遺跡がシュリーマンによって発見されたり、始皇帝の地下宮殿が発見されてその想像以上の規模と権力の大きさに度肝を抜かれたり、魏志倭人伝に描かれた弥生集落の姿が吉野ヶ里などで発掘されたり、出雲大社の高層神殿の証拠が発見されたりと、大昔から伝わるお話もあながち妄想の所産だとばかり言い切れないという気になります。

超高層神殿再現模型
撮影:柏木宏之
私が注目している「出雲にまつわる神話群」をそういう目で再読すると、面白い想像が頭をもたげます。それは「スサノオとヤマタノオロチ伝説」、「オオクニヌシ伝説」、「国引き神話」、「国譲り伝説」などの根底に、何らかの事実があったのではないのか? という興味です。
それらの話を大くくりにしてみるとすべて建国譚で、元々こういう神話には何らかの教えや記憶をとどめているのではないかという疑いがありますね。これまでにも多くの方々が神話と真実を考察してこられましたので、特に目新しい考え方ではありませんが、新発見が相次ぐとオリジナルの妄想遊びはとても楽しい時間となります。(笑)
そのうえ「出雲」と呼ばれた集団はどんな人たちでどんな範囲に生活していたのかもよくわかりません。ただ出雲出身とされている神や人物は多くいます。

出雲大社
撮影:柏木宏之
現在の出雲地域が弥生の王国中心部だった可能性は、新発見や考古学調査のおかげで想像に難くありませんが、その出雲という狭い地域に限定された王国だったのか?というとそうは思えない話が各地に残っているのです。
例えば、野見宿祢(のみのすくね)は相撲の開祖で、埴輪の実用化をしたと伝わる人物でもあり出雲出身だとされていて、文武に優れたキャラクターとして描かれています。この「出雲出身」を「現代の出雲地域からやって来た」と解釈するとまちがいが起こると思います。あくまで「出雲族」と解釈しましょう。
2世紀から3世紀頃の島根県西谷(にしだに)遺跡の大型四隅突出墳丘墓群は、出雲地域の弥生王墓と考えるしかありませんし、すぐ次にはじまる古墳文化の兆しを感じさせます。
弥生時代の墳丘墓にも次の時代の古墳にも丸い物や四角いものがあります。一応、前方後円墳が登場してからが古墳時代とされていますが、弥生時代の大型墳丘墓である四隅突出墳丘墓は形の違いがあるだけで、基本的な土木技術に古墳と大きな違いは感じません。
大和王権の始まりは、大型前方後円墳の出現期とリンクしているとする学説がこの時代の画期を決定していますが、大型前方後円墳がドカドカ造られる3世紀後半から5世紀はじめの空白の4世紀間に、奈良盆地周辺に栄えていた古代豪族の痕跡には、出雲王国を構成していた一族の気配が濃厚に残されているように思える話が数多くあります。
奈良盆地に出現する大和王権は5世紀の「倭の五王」時代には成立していると考えてよいのですが、それ以前の奈良盆地の政治状況は混とんとしていてさっぱりわからないのです。
例えば、奈良県西部の葛城山系の麓に大きな遺跡を残した「鴨氏(かもうじ)」は、出雲王朝とのかかわりが大きく、出雲の勢力が奈良盆地に及んでいたとしか思えないのです。
三輪山に大物主大神を祀った伝説には「大田田根子(おおたたねこ)」という祭主が登場します。この人は大物主大神の子孫だと証言されていますので、もろに出雲王国の末裔です。第10代崇神天皇の時代に大神神社を創始した時、国津神であり出雲国王だった大物主(=大国主)を大和に再興し、その直系に祭祀を任せたという事になります。
鴨氏の大和入りに関しては面白い話もあり、まさに出雲王国の貴人豪族であることが語られているのですが、その話はまた次の機会に!