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南北戦争・ゲティスバーグの戦い 波乱の幕開けとなった1日目はどう展開していったのか?

軍事史でみる欧米の歴史と思想

 

■1863年7月1の南北両軍の動向と戦略

 

 186371日の朝8時に始まったゲティスバーグの戦いでは、北方から南下してくる南軍の北ヴァージニア軍73,000名と南から北上してくる北軍のポトマック軍115,000名が対峙した。ただし南北両軍とも戦場には三々五々集まってきたため、初日はとくに、約2個軍団同士の戦いとなった。南軍の場合、午前中にAP・ヒルの第3軍団が北西から戦場に到着し、午後にはリチャード・ユーエルの第2軍団が真北から戦場に到着した。一方、北軍の場合、午前中にジョン・レイノルズの第1軍団が南方から戦場の北西(北軍左翼)に、次にオリヴァー・ハワードの第11軍団が南から戦場の北端(北軍右翼)に到着した。

 

 午前10時にレイノルズの歩兵軍団はゲティスバーグ北西の丘に到着したが、状況視察のため前線に来ていたレイノルズ自身は、ヒル軍団所属の狙撃兵にすぐ射殺された。しかし南軍もポトマック軍との遭遇を予測していなかったため、一時間ほど激戦を続けた後、丘を奪取できずに後退した。なお北軍第1軍団の指揮権は、戦死したレイノルズの後にアブナー・ダブルデーが引き継いだ。軍団長がいきなり戦死するという波乱の展開である。

 

 午後2時ごろ、北ヴァージニア軍司令官のロバート・リーが戦場に到着した。規模不明の北軍歩兵が戦場にいることに当惑したリーは、戦闘中止命令を出そうかと検討していた。だがちょうどその時、午後3時ごろユーエル軍団の先発部隊が戦場に到着し、北軍の右翼、つまりハワードの軍団を突いたのである。戦機を認めたリーは、戦場にいた南軍全軍に進撃を命じた。その結果、北軍の2個軍団は潰走し、ゲティスバーグの町を通過して、町南方のセメテリー・ヒルの小高い丘に逆U字型の陣地を構築せざるを得なかった。

 

 セメテリー・ヒルの陣地(Uの底辺が北向き)では、北軍のウィンフィールド・ハンコックが不満げなハワードから指揮権を引き継ぎ、深夜までになんとか即席の陣固めができた。一方リーは、軍団長たちに、北ヴァージニア軍の集結が済むまでは全面戦闘に入らないよう注意していた。それでもユーエルの部下のなかには、好機逸すべからずと考え、攻撃の続行を強く主張したものもいたのである。確かに判断の難しい局面であっただろう。

 

 その夜、リーとユーエルは翌日の作戦について相談した。その結果、ユーエルの軍団は、セメテリー・ヒル陣地北東の突出部に示威行動をおこない、到着したばかりのジェームズ・ロングストリートの第1軍団が同陣地の西方で本格的な攻撃をしかける予定になった。翌2日に梯形陣を命じたリーの戦法は、古代ギリシアにおけるテーベの将軍エパミノンダスの斜線陣戦術を彷彿させるものとなる。

ジョン・F・レイノルズが戦死する場面を描いた『レイノルズの死』(アルフレッド・ルドルフ・ウォード)。
アメリカ合衆国議会図書館蔵

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布施将夫ふせまさお

京都外国語大学・京都外国語短期大学教授、学生支援部長。京都大学博士(人間・環境学)、関西アメリカ史研究会代表幹事。専門は19世紀後半における欧米の軍事史。主な著書に『補給戦と合衆国』(松籟社,2014)、『近代世界における広義の軍事史―米欧日の教育・交流・政治―』(晃洋書房,2020)、『欧米の歴史・文化・思想』(晃洋書房,2021)など。

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