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戦国時代の女性として最高の地位についた北政所・ねねの功績

ヒロインな偉人図鑑【ねね編】


学校の教科書で習う偉人たちのほとんどは男性偉人。しかし、日本の政治史に変化をもたらす活躍をした女性偉人も多数存在しています。そんな日本の歴史上の〝ヒロイン〟ともいえる偉人の活躍について紐解いていきましょう!【歴史人Kids】


ねね(撮影:上永哲矢)

少しむずかしい言い方ですが、糟糠(そうこう)の妻という言葉があります。若いころから苦労をともにして、いっしょに粗末(そまつ)な食事をして夫を肋け、家庭を守ってきた妻のことです。

 

豊臣秀吉にとって、寧(ねね)は、まさにこの「糟糠の妻」だったといえるでしょう。ねねは、杉原定利(すぎはらさだとし)と朝日(あさひ)の娘として生まれましたが、幼いころに朝日の姉が嫁いだ浅野長勝(あさの ながかつ)の養子になり、育てられました。

 

1561年、ねねは織田信長に小者として仕えていた秀吉と結婚することになります。このとき13歳。秀吉は25歳。ひと回り離れていましたが、ふたりは愛し合っていたといいます。はたして、どんな出会いだったのでしょう。このとき秀吉も浅野長勝も信長の足軽で、同じ長屋に住んでいて、その関係で出会ったともいわれますが、詳しくはわかっていません。

 

それからというもの、秀吉は信長のもとで働き、どんどん出世していきました。その間、ねねがどうしていたかは不明ですが、秀吉の家族たちと一緒に暮らし、時々家に帰ってくる秀吉をよく支えていたのでしょう。

 

「この前、久しぶりに会ったがあなたはいっそう美しさが増している。ハゲネズミ(秀吉)が、あなたほどの女をほかに得られるはずはないのだから、あなたも奥方らしく堂々としていなさい」

 

織田信長がねねにあてた手紙に、こんなことが書かれています。秀吉がほかの女性に夢中になっていると聞いて、ねねが焼きもちをやいたことを知り、信長が手紙をよこしたのです。信長もねねを気に入っていたことがよくわかります。

 

1574年、秀吉は近江長浜(おうみ・ながはま)の城主になりました。ねねは、秀吉の母たちとともに秀吉のもとへ呼び寄せられ、新たな家で暮らし始めます。初めて一国一城の主となった秀吉ですから、それまでとは、まったく違う暮らしぶりに変わりました。秀吉はねねに政治のことを相談することも多かったようです。また、城をあけることも多かったため、ねねが城主の代行をつとめることもあったようです。

 

秀吉とねねは仲良し夫婦でしたが、残念なことに子どもができませんでした。親族から養子を迎えたり、地元の尾張や長浜の商家の息子などを養子に迎えたりして、彼らを将来的な秀吉の家臣にするよう教育します。

 

そのなかには加藤清正(かとうきよまさ)や福島正則(ふくしままさのり)、石田三成(いしだみつなり)など、のちに名前を知られる武将たちもいました。もちろん、ねねも彼らの面倒をみてかわいがったそうです。

 

その後、本能寺の変で信長が世を去り、秀吉は明智光秀や柴田勝家を倒して天下人へと近づきます。ねねは長浜城で留守をまもっていましたが、大坂城ができると、そこへ移り住みました。1585年、秀吉が関白(かんぱく)に任じられると、ねねは北政所(きたのまんどころ)という称号(関白の正室という意味)を朝廷から与えられました。また、秀吉からは領地も与えられ、経済的にも自立。名実とも天下人の妻となったのです。

 

以後、ねねは秀吉から朝廷との交渉を任せられ、人質として大坂城の城下町にあつめられた諸大名の妻子(さいし)をまとめる立場にもなりました。また、大名が客として大坂へやってくると、北政所の名前でたくさんのお酒やごちそうが届くこともありました。

 

秀吉は天下人となって、だれも逆らう人がいない存在になっていましたが、その例外が秀吉の弟・秀長(ひでなが)と、妻ねねでした。ふたりは秀吉にも遠慮なく意見をいうことができたので、まわりの人からも頼りにされていたようです。諸大名がいるまえで、秀吉とねねは若いころと同じように尾張弁(おわりべん)で口げんかをすることもあり、晩年まで良い夫婦だったようです。

 

そして1598年、秀吉が没したあと、ねねは大坂城を出ました。大坂城には秀吉の側室・淀殿(よどどの)、その実子の秀頼(ひでより)が城主として入ることになります。ねねは京都東山に高台寺(こうだいじ)を建て、そこに住んで夫の菩提(ぼだい)をとむらい、余生を過ごします。そのため、ねねは高台院とも呼ばれます。

 

ねねは自分の役割は終えたと考えたのでしょう。それでもねねを慕う人は多く、彼女に育てられた大名たちはたびたび、ねねに手紙を送ったり、面会に来たりしたそうで、その言動は「関ケ原の戦い」や「大坂の陣」にも少なからず影響をあたえたとおもわれます。1624年、ねねは豊臣家の滅亡を見届け76歳で生涯をとじました。

 

最後にねねの官位について。1588年、後陽成(ごようぜい)天皇は秀吉の邸宅である「聚楽第」(じゅらくだい)へ行幸(ぎょうこう)しました。このとき、ねねの準備によって万事がうまくいき、天皇は上機嫌だったといいます。そこで、ねねの功績に感謝して「従一位」(じゅいちい)の官位を与えました。

 

これは当時の女性に与えられる最高位で、生前においても夫の秀吉と同列です。生前に従一位に叙せられた女性は数人だけで、それも約500年ぶりのことで、いかに特例だったかがわかります。

 

ねねは皇族ではなく、地位の高い家に生まれていないにもかかわらず、女性として最高の栄誉を手にしたのです。それはもちろん、夫・秀吉の力によるところが大きいのですが、ねね自身にも優れた才覚があり、大いに内助の功(ないじょのこう)を発揮したということができるでしょう。

 

ちなみに、従一位より上には「正一位」(しょういちい)がありますが、これは天皇や将軍と同列になってしまうため、鎌倉時代の終わりごろから江戸時代のはじめまで、正一位は誰も任官されていません。信長・秀吉・家康は正一位になりましたが、いずれも生前ではなく、没後に追贈(ついぞう)されたものです。

 

※この記事は【歴史人kids】向けの内容です。

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上永哲矢うえなが てつや

歴史著述家・紀行作家。神奈川県出身。日本の歴史および「三国志」をはじめとする中国史の記事を多数手がけ、日本全国や中国各地や台湾の現地取材も精力的に行なう。著書に『三国志 その終わりと始まり』(三栄)、『戦国武将を癒やした温泉』(天夢人/山と渓谷社)、共著に『密教の聖地 高野山 その聖地に眠る偉人たち』(三栄)など。

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