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古代エジプトの女王「クレオパトラ」は何人もいた?その名前の意味は?

ダークヒーローな偉人図鑑


映画『ジョーカー』や『マレフィセント』など、もともと〝悪役〟として描かれていたキャラクターを主人公とした作品が数多くヒットしています。時代劇でもまた、ライバルとして描かれる偉人たちがいますよね。そんな偉人たちにフォーカスを当てた『ダークヒーローな偉人図鑑』。【歴史人Kids】


 

デンデラ神殿にあるクレオパトラとカエサリオンの壁画

「クレオパトラの鼻。それが、もう少し低ければ、世界の歴史は変わっていただろう」

この言葉を記したのは、フランスの哲学者パスカルです。

 

古代エジプトの女王クレオパトラが、その美しさでカエサルやアントニウスといったローマの権力者の心をつかんだと伝わることから、いわれた言葉です。こうした後世(こうせい)の評判もあり、クレオパトラは絶世の美女だったといわれています。

 

そのように、だれもが聞いたことがあるといっても良いほどに有名なクレオパトラ。いったい、どんな女性だったのでしょうか。

 

彼女が歴史にあらわれるのは紀元前51年のこと。クレオパトラがまだ18歳の時に父・プトレマイオス12世がなくなりました。その父の遺言によって、クレオパトラは弟のプトレマイオス13世と共同で王位につくことになりました。ただ、弟がまだ9歳と幼いため、実際はクレオパトラが女王となったようなかたちです。

 

そのためか、弟の支持者たちや、妹(アルシノエ4世)のたくらみで、クレオパトラは首都のアレクサンドリアから追放されてしまいました。このような身内の争いで王朝は乱れていたのですが、そこへ登場したのがローマ帝国のあらたな指導者、ユリウス・カエサル(シーザー)です。

 

 

■カエサルを誘惑してローマに自分の像を建てる

 

当時、クレオパトラの一族が治めていたプトレマイオス王朝はローマ(現在のイタリア首都)の支配下にあったので、カエサルはこの争いに介入(かいにゅう)してきます。カエサルは追放されていたクレオパトラを保護し、彼女に力を貸して「ナイル川の戦い」(紀元前47年)でプトレマイオス13世を倒しました。

 

伝承によると、カエサルに招かれたクレオパトラは寝具を入れる袋(ふくろ)にくるまって、自分をカエサルのもとに運ぶように命じたといいます。それには「わたしの身をあなたにささげます」という意味があったとか。袋から出てきたクレオパトラを見たカエサルは、その美しい姿に、たちまち心をうばわれてしまったといいます。

 

首都のアレクサンドリアに入ったカエサルは、クレオパトラと弟のプトレマイオス14世を結婚させ、共同で王にしました。しかし、14世は名前だけの王でした。その証拠(しょうこ)に、紀元前47年にはカエサルとクレオパトラの子・カエサリオンが生まれています。

 

その後、カエサルはクレオパトラと息子のカエサリオンを連れてローマへ凱旋(がいせん)しました。ローマの広場にはクレオパトラの像が建ったといいます。「あの女王の傲慢(ごうまん)さは、思い出したくもない」などとローマの貴族が手紙に書いていますから、カエサルとともに権力の絶頂にあったのでしょう。

 

ところが、そんな矢先にカエサルは部下たちの反乱にあって殺されてしまいます。クレオパトラは息子とともにアレクサンドリアへ逃げましたが、今度は夫で弟のプトレマイオス14世が亡くなってしまいます。死因はわかりません。クレオパトラの関与はあったのでしょうか。クレオパトラは息子のカエサリオンを王位につけ、プトレマイオス15世としました。

 

 

■アントニウスを誘惑して安住の土地を得る

 

その後、ローマ帝国ではアントニウスが力をつけ、新たな指導者になりつつありました。アルメニア王国を制したアントニウスは、凱旋式のためにアレクサンドリアへやってきます。すると、クレオパトラはアントニウスを味方につけようと、今度は彼の愛人になったといいます。やがてアントニウスとの間にも3人の子どもができました。

 

アントニウスは、クレオパトラや、彼女との間に生まれた子どもたちに独断で領地を与えました。彼はすっかりクレオパトラの美しさにおぼれたとローマで噂(うわさ)されます。クレオパトラの願いで自分の妻オクタウィアを離縁(りえん)したともいい、アントニウスへの反発が強くなりました。

 

ローマに、もうひとりの有力者が現れます。カエサルの養子・オクタウィアヌスです。彼はやがて、アントニウス討伐(とうばつ)の兵をあげました。そして紀元前31年、アクティウムの海戦で両者は激突。敗れてしまいます。

 

アントニウスはアレクサンドリアに逃げもどりましたが、絶望して自害しました。一説に、クレオパトラの裏切りをうたがっていたともいわれます。クレオパトラは助命を願おうとしますが、オクタヴィアヌスは応じず、彼女を監禁(かんきん)しました。

 

クレオパトラはすでに40歳。もう色じかけは通用しなかったのか、あるいはアントニウスを本当に愛していて、彼の死に絶望したのかもしれません。紀元前30年、用意していた毒蛇(どくへび)に自分の胸をかませて自殺したといわれます。

 

エジプトを征服したオクタヴィアヌスは、国外へ逃れていたカエサリオンを呼び戻し殺害します。ここにプトレマイオス王朝は滅んだのです。

 

色じかけで2人の権力者を虜(とりこ)にしたことで、悪名をもかぶったといわれるクレオパトラですが、それも国を守るための手段だったといえるかもしれません。また「美貌」だけでは権力者を動かすことも難しいため、交渉(こうしょう)能力や、人の心をつかむ話術(わじゅつ)にも、すぐれていたのかもしれません。

 

権力者でありながら敗者であり、歴史の運命に翻弄(ほんろう)された女性のひとりとして、現代では彼女を悪くいう人は少なそうです。

 

 

生前、クレオパトラはデンデラという地方に建てたハトホル神殿の壁に自分と息子のカエサリオンの姿を描かせました。その壁画は今でも残っていて、横顔の口元に笑みをたたえたクレオパトラの全身が描かれています。

 

それは、将来のファラオとなるカエサリオンがエジプトの神々に権力の座を認めてもらい、自分もイシス神の化身として、その様子を見守っているという姿です。しかし、クレオパトラの夢は、はかなく潰えたのでした。

 

 

■「クレオパトラ」は何人もいた? 名前の意味は?

 

じつは、クレオパトラという女性は歴史上に何人かいました。彼女の先祖は6人いて、同じくクレオパトラ1世から6世と呼ばれていました。いずれもプトレマイオス朝のファラオ(女王)をつとめた女性たちで、そのなかで、いちばん有名なのが今回紹介した「クレオパトラ7世」というわけです。ただし6世は実在せず、7世の母親はクレオパトラ5世とも考えられています。

 

つまり「クレオパトラ」は彼女個人の名前ではありません。その意味は古代ギリシア語で「父の栄光」をあらわすクレオパトロスの女性形です。

 

クレオパトラ7世は、愛するアントニウスとともにアレクサンドリアに埋葬(まいそう)されたといわれますが、その墓はまだ発見されていません。彼女の宮殿はアレクサンドリアの港に突き出た半島にあったという記録がありますが、そこは彼女の死後500年ほど経ったころに起きた大地震で海に沈んでしまったそうです。

 

近年、エジプトのアレクサンドリア港内の海の底(そこ)で、プトレマイオス朝時代のものとみられる宮殿の跡が見つかっています。このなかに、クレオパトラ7世の墓があるのでしょうか。海のなかの調査は大変な困難(こんなん)ですが、いつの日かその姿が地上に姿をあらわすのかもしれません。

 

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上永哲矢うえなが てつや

歴史著述家・紀行作家。神奈川県出身。日本の歴史および「三国志」をはじめとする中国史の記事を多数手がけ、日本全国や中国各地や台湾の現地取材も精力的に行なう。著書に『三国志 その終わりと始まり』(三栄)、『戦国武将を癒やした温泉』(天夢人/山と渓谷社)、共著に『密教の聖地 高野山 その聖地に眠る偉人たち』(三栄)など。

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