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神号「東照大権現」をめぐって対立した天海と崇伝

史記から読む徳川家康㊽


12月17日(日)放送の『どうする家康』第48回「神の君へ」では、豊臣家との最終決戦に臨んだ徳川家康(とくがわいえやす/松本潤)の姿が描かれた。戦後、家康の胸に去来したのは、かつて共に歩んだ三河武士団たちとの日々だった。


戦なき世を作り上げた家康

大阪府大阪市の大阪城公園の一角に建てられた、豊臣秀頼・淀殿の自刃の地の石碑。秀頼らの自害から20日後、かつての豊臣家の重臣で大坂冬の陣を機に決別していた片桐且元も病死した。

 豊臣家との最後の戦いとなる戦場に、徳川家康が姿を現した。打倒家康に逸る豊臣家の諸将は、家康の布陣した茶臼山(ちゃうすやま)に次々に攻撃を仕掛けた。

 

 真田信繁(さなだのぶしげ/日向亘)らは徳川軍の本陣にたどり着き、直接、家康に襲いかかった。一歩も退くことなく彼らを迎え撃とうとする家康を守ろうと、本多正信(ほんだまさのぶ/松山ケンイチ)ら護衛が敵兵を銃撃して撃退。すんでのところで命を拾った家康だったが、徳川軍優勢の戦局が覆ることはなかった。

 

 そんななか、豊臣秀頼(とよとみひでより/作間龍斗)の妻であり、家康の孫娘である千姫(せんひめ/原菜乃華)が大坂城から連れ出されてくる。千姫は秀頼・茶々(ちゃちゃ/北川景子)の助命を必死に嘆願するが、家康が聞き届けることはなかった。

 

 こうして、火に包まれた大坂城内で秀頼・茶々母子は自害。豊臣家家臣らが後を追い、戦乱の世が終わった。

 

 戦後、南光坊天海(なんこうぼうてんかい/小栗旬)による家康の神格化が始まる一方、あまりの偉業を成し遂げた家康を畏れ、身の回りの世話を希望する者はほとんどいなかった。天下人にふさわしい、広々とした寝所に一人、身を横たえる家康の元を訪ねる者さえ、数えるほどだった。

 

 1616(元和2)年417日、家康は苦楽をともにしてきた三河の家臣たちや、瀬名(せな/有村架純)、信康(のぶやす/細田佳央太)たちとの思い出が走馬灯のように蘇るなか、深々と頭を垂れ、波乱万丈の生涯を閉じたのだった。

 

晩年まで家康は手製の薬を服用していた

 

 1615(慶長20)年55日、徳川家康と秀忠は、それぞれ二条城、伏見城(いずれも京都府京都市)から出陣した(『駿府記』『舜旧記』)。翌6日には、河内国道明寺(大阪府藤井寺市)や八尾(大阪府八尾市)などで徳川軍と豊臣軍の戦闘が繰り広げられている(『駿府記』)。

 

 翌7日、家康と秀忠の軍勢は大坂城の攻撃に着手。徳川軍は小笠原秀政(おがさわらひでまさ)、豊臣軍は真田信繁らを失う激戦となったが、豊臣軍は劣勢を覆すことができず、徳川軍に大坂城本丸を占領された。ここで大野治長(おおのはるなが)は、家康の孫娘であり、豊臣秀頼の妻であった千姫を家康の本陣へ送り届け、秀頼・淀殿(よどどの/茶々)母子の助命を要請している(『駿府記』)。

 

 大坂城が落城したのは翌8日のこと。城内に押し寄せてくる徳川軍から逃れようと、秀頼は本丸天守に籠もったものの、城内に放たれた火の手が回ってきたため、焼け残った倉に身を潜めた。しかし、そこも徳川軍に発見されたため、秀頼、淀殿の他、女中20人ほどが自害に至った(『舜旧記』『本光国師日記』)。ここに、豊臣家が滅亡した。

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小野 雅彦おの まさひこ

秋田県出身。戦国時代や幕末など、日本史にまつわる記事を中心に雑誌やムックなどで執筆。近著に『「最弱」徳川家臣団の天下取り』(エムディエヌコーポレーション/矢部健太郎監修/2023)、執筆協力『歴史人物名鑑 徳川家康と最強の家臣団』(東京ニュース通信社/2022)などがある。

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