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史料によって異なる穴山梅雪の「最期」

史記から読む徳川家康㉙


7月30日(日)放送の『どうする家康』第29回「伊賀を越えろ!」では、徳川家康(とくがわいえやす/松本潤)が京を逃れて三河へ戻る、いわゆる家康の三大危機「神君伊賀越え」の様子が描かれた。その途上、家康は意外な人物と再会する。


 

三大危機に数えられる家康の逃避行

大阪府交野市に建てられた、徳川家康が潜んだ伝承の残る藪の石碑。いわゆる「神君伊賀越え」で家康がたどったルートは諸説あり、今も研究が続けられている。

 本能寺の変で混乱を極める京を逃れ、自領の三河へ急ぐ徳川家康のもとに、服部半蔵(はっとりはんぞう/山田孝之)ら服部党が駆けつける。

 

 家康らは半蔵の先導のもと、甲賀(こうが)忍者の親玉でもある小川城の多羅尾光俊(たらおみつとし/きたろう)を頼ることになった。ところが、光俊らのあまりの親切ぶりに一同は困惑。罠を警戒した半蔵は、家康に三河へ戻る経路として、光俊に危険と警告された伊賀越えをあらためて進言する。

 

 こうして家康一行は密かに城を抜け出し、半蔵ら服部党の先祖の故郷である伊賀国へ踏み入った。

 

 ところが、侵入するや否や、家康は伊賀忍者を束ねる百地丹波(ももちたんば/嶋田久作)に捕縛される。伊賀に攻め入った織田信長(おだのぶなが)に恨みを募らせる百地は、信長の同盟者だった家康の首を獲って明智光秀(あけちみつひで/酒向芳)に献上しようとしていたのだった。

 

 家康があわや斬首されかかったところに現れたのが、かつて家臣だった本多正信(ほんだまさのぶ/松山ケンイチ)だった。正信は三河を追放された後、百地ら伊賀者の軍師となって食いつないでいたのだという。

 

 正信の機転により難を逃れ、百地を味方につけた家康は、無事に伊賀越えを成功させ、三河へたどり着いたのだった。

 

羽柴秀吉は明智光秀の首を本能寺でさらした

 

 本能寺(京都府京都市)の事変を聞きつけた徳川家康は、急遽上洛を取りやめ、自領の三河国(現在の愛知県東部)へ戻るべく、その最短距離である伊賀越えを選んだ(『家忠日記』『続武家閑談』『三河物語』)。

 

 家康らは1582(天正10)年62日、すなわち本能寺の変の起きた日の夜、信楽(しがらき)に宿泊し、次いで伊勢に出て白子(現在の三重県鈴鹿市)から船に乗り、4日の朝、大浜(現在の愛知県碧南市)に到着。遅くとも翌5日には岡崎城(愛知県岡崎市)に入城した。これらが「神君伊賀越え」の一般的な説(『家忠日記』『信長公記』『当代記』)だが、他にもさまざまな説があり、正確なところは分かっていない。

 

 この時、家康一行のなかに伊賀国(現在の三重県西部)に縁者の多い服部半蔵正成(まさしげ)がおり、彼の呼びかけに応じた伊賀・甲賀の地侍らが家康の護衛を務め、山賊の群がる峠を乗り越えたといわれる(『寛政重修諸家譜』)。事実、この逃避行の際に家康に協力した伊賀者たちは後に徳川家に召し出され、半蔵の配下となっている(『伊賀組大由緒記』)。ただし、「伊賀越え」で半蔵が活躍したとする説に否定的な研究者もいる。

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過去記事

小野 雅彦おの まさひこ

秋田県出身。戦国時代や幕末など、日本史にまつわる記事を中心に雑誌やムックなどで執筆。近著に『「最弱」徳川家臣団の天下取り』(エムディエヌコーポレーション/矢部健太郎監修/2023)、執筆協力『歴史人物名鑑 徳川家康と最強の家臣団』(東京ニュース通信社/2022)などがある。

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