上杉景勝から高く「評価」された本庄繁長
武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」 第89回
■直江兼続の影に隠れた本庄繁長の「評価」

関ヶ原の戦いにおいて本庄繁長が籠城し、伊達家と交戦した福島城跡(福島県福島市杉妻町)。現在の跡地一帯は、福島県庁となっている。
本庄繁長(ほんじょうしげなが)は上杉謙信(うえすぎけんしん)と景勝(かげかつ)の二代に仕え、数々の戦に参加して活躍していますが、直江兼続(なおえかねつぐ)ほど一般的に「評価」されてないと思われます。
しかし、関ヶ原の戦いの敗戦において、繁長が上洛して家康との講和交渉を主導し、出羽国米沢30万石への減封で纏めることに成功しています。
景勝からは武勇を賞されて「武人八幡」という称号を与えられ、上杉家の家紋である「竹に飛雀」の使用を許されるなど、上杉一門としての扱いを受けています。
繁長は景勝から、直江兼続とは異なる形で、高く「評価」されていたようです。
■「評価」とは?
「評価」とは辞書によると「物事や人物の能力、特性、性質、価値などを客観的な基準に基づいて判断し、定めること」とされています。
「評価」には、価値を判断する「対象の善悪、優劣、美醜などを調べ、それに見合った価値を判断すること」という意味や、「ある人や物事の意義や価値を高く認めること」が含まれています。
繁長は上杉家に謀反を起こし、謙信と戦った後に復帰した経歴があるものの、景勝からの「評価」は高いものでした。
■本庄家の事績
本庄家は現在の新潟県村上市にあった本庄城を拠点とした国人領主です。桓武平氏秩父氏の流れを汲み、鎌倉時代に秩父家が荘園の地頭として越後に入り、その一部が本庄を名乗ったと言われています。
阿賀野川北岸地域に拠ったことから、戦国時代の初期ごろには、その他の国人たちと共に、揚北衆(あがきたしゅう)と呼ばれるようになりました。揚北衆に属する国人層は独立心が強いため、越後守護の上杉家や守護代の長尾家と対立することもあり、また所領を巡って揚北衆同士で争うこともありました。
上杉謙信の時代になると、家臣団として組み入れられ、上杉軍の3割を占めるほどの重要な戦力となっていきます。
本庄家は、父房長(ふさなが)が弟の小川長資(ながすけ)に居城を奪われるなど、家中で争いがありましたが、繁長の手によって実権を回復させています。
謙信による関東出兵では先鋒を務め、4回目の川中島の戦いでは上杉軍の窮地を救う活躍を見せています。
しかし、1568年に繁長は恩賞への不満から、武田信玄の誘いに乗って謀反を起こしています。1年間ほど本庄城に籠城し、謙信率いる上杉軍の猛攻を凌いだものの、最終的に人質を差し出して和議を結びます。
この反乱により繁長は減封され、謙信が亡くなるまで表舞台から遠ざかるようになりました。
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