朝ドラ『虎に翼』政府が推進した「内鮮結婚」とは? 崔香淑と汐見圭の結婚の裏事情
朝ドラ『虎に翼』外伝no.36
NHK朝の連続テレビ小説『虎に翼』は第11週「女子と小人は養い難し?」が放送された。佐田寅子(演:伊藤沙莉)は、家庭裁判所準備室で室長補佐を務める汐見圭(演:平埜生成)の妻と出会う。汐見の妻は、かつて女子部で寅子と共に学んだ崔香淑(演:ハ・ヨンス)だったが、今は「汐見香子」と名乗っていた。今回は2人の結婚について、歴史的な側面から解説する。
■帝国臣民は国のために「内鮮結婚」をすべしという国策が生んだ悲劇
作中では、朝鮮に赴任していた多岐川幸四郎(演:滝藤賢一)と汐見が香淑の兄・潤哲の予審に関わったことが縁となって惹かれ合い、終戦後に香淑が共に日本に渡った経緯が描かれた。
大前提として、当時朝鮮は大日本帝国の領土の一部(外地)であったことから、この場合は「国際結婚」ではなくあくまで“日本の国民”同士が結婚したことになる。香淑が汐見と共に日本に渡ったことも、密航などではなくあくまで「国内での移住」とみなされる。
日本は昭和11年(1936)頃から昭和20年(1945)の終戦まで、朝鮮統治において「内鮮一体」を掲げていた。要は「朝鮮を内地(日本本土)とあらゆる意味で一体化させよう」という、同化政策の一環である。
そして、内鮮一体という目標達成のために最も現実的で根本的な手段として推奨されたのが、「内鮮結婚」だった。家庭ができ、子供ができ、そうして血が混ざりあっていくことこそが帝国の臣民として一体化していくことにおいて重要だと考えられていたのである。
先陣を切るかのようにその役割が求められたのは、高貴な身分の人間だった。内鮮融和を国民に示すという大義を秘めつつ、大正9年(1920)、大韓帝国最後の皇太子・李垠(イ・ウン)と梨本宮家の方子女王が成婚。その際、「内鮮一体」「日鮮融和」といったスローガンが大々的に掲げられたのだ。そうした流れを受けて、昭和11年(1936)以降、ますます国策として推し進められるようになった。
雑誌『内鮮一体』を刊行した朴南圭は自身も日本人女性を妻に迎え、「大朝実臣」と改名した上で、同誌で以下のように記している。「内鮮結婚の成就を希念している。内鮮一体は、二つの個性体が一つの個性体に変化することでなくして、二つの個性体が「一」にならんとする永遠の努力、行をいふのである。陛下へ、国家へ、奉仕する銃前皇軍の様に、銃後の国民も亦全力を奉仕して一体への夫婦行を実践し、内鮮の結婚行へ突進しなければならぬと思ふ」(一部中略)。
この文章に、当時の日本政府が成し遂げたかった皇民化政策をどのように“国民”に喧伝したかったかが詰まっているように思われる。
「天皇陛下、そして大日本帝国という国のために戦地で命を懸けて戦う兵士のように、銃後の国民は結婚を通じて内鮮一体を為そう」というのだ。実際、朝鮮人男性と日本人女性、そして日本人男性と朝鮮人女性の夫婦の数は増えていた。
昭和20年(1945)に終戦を迎えた後も、朝鮮半島が連合国の軍政下にあることから引き続き日本国籍が有効となっていた。これは、昭和23年(1948)に大韓民国政府が樹立し、その後昭和27年(1952)にサンフランシスコ講和条約の発効によって日本が朝鮮の独立を正式に認めるまで続く。この時をもって、朝鮮戸籍登録者は平和条約国籍離脱者として日本国籍を喪失するのである。
ちなみに、GHQは朝鮮から日本への引き揚げにあたって、「日本政府は、日本人男子と婚姻をなし、夫とともに日本に入国する外国人女子を、従前どおり日本人として登録することを認めるように」という指示を出している。
香淑と汐見圭が結婚したタイミングまでは明示されなかったため、「僕との結婚を機に日本名を名乗ることになった」のが、朝鮮にいた頃の創氏改名政策に伴うものなのか、それとも日本に渡ってからのことなのかは不明だが、いずれにしても彼女は「チェ・ヒャンスク」でも「さい こうしゅく」でもなく「汐見香子(しおみきょうこ)」として、息をひそめるように暮らしている。
会いたい人に会えず、故郷も両親や兄との繋がりも、そして名前すらも失った香淑の悲愴な表情と、寅子が感激し希望を見出した日本国憲法第14条第1項「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」とを対比させるにつけ、その残酷さが際立つのである。

「外地からやってきたご婦人には服装や食事の面で内地の文化にならってもらおう」と、全国各地で講習会が開かれていた。
昭和16年『協和写真画報』より/国立国会図書館蔵