歴史好きキッズからの質問!「好きなお城は?最弱の戦国武将は?」河合敦先生×栗山英樹さんのスペシャル対談
河合敦先生×栗山英樹さんのスペシャル対談、公開収録に潜入!
連載「栗山英樹のレキシズム」の第5回で栗山氏と熱い対談を交わしたのは、メディア・講演会など多方面で大活躍している河合敦先生!対談当日は、事前に歴史人公式Instagramを通じて募集した歴史人Kids20名と保護者の皆さまにお越しいただき、公開収録を行いました。歴史人Kids WEBでは月刊誌『歴史人』未公開の、歴史人Kidsから栗山さんや河合先生への質問をお楽しみいただけます!
歴史人Kidsから河合先生&栗山さんへの質問タイム!

(左)河合敦さん・(右)栗山英樹さん
―今川義元が桶狭間の戦いで打ち取られ負けてしまったのはどうしてですか?
河合敦先生(以下、河合先生):「軍師」と呼ばれる人がいて、その人の話を聞きながら戦いを進めていました。
今川義元もその一人ですね!
義元は、家臣団などもしっかりと従えた強い戦国大名の一人。
駿河国と遠江国という大きな国を支配下に治めた義元は、優秀な人ではありました。
しかし、どうしてか桶狭間の戦いで負けてしまいましたね。
人間には“運”と“不運”があって、これは不運な出来事でした。
“運命”ということだったということなのかもしれません。
―例えば、上杉謙信は「龍」と書かれた旗を用いていたといわれています。それはどうやって決まったのか分かっているのですか?

河合敦先生にインタビュー!
河合先生:旗に書かれた文字をどうやって決めていたのか・・・これは難しいですね。
「記録に残っていないから分からない」というのが正確な答えかなと思います。
記録に残っていることを、歴史の研究の学者たちは研究しています。
何をしているのかというと“一次史料”と呼ばれる、日記・手紙・公的文書をできるだけ集めて、事実が何かを確定しているのが歴史学です。
もう少し分かりやすくいうと、『去年の今日のお昼に何を食べたか』を研究しているのが歴史学です。
分からなかったり、思い出せなかったりしますよね。
では、それを分かるようにするためにどうするのかというと、自分が書いた日記や学校の献立表やメールなどをみて、「カレーライスを食べた」ということが分かります。このように歴史学者は日々、研究をしています。
残念ながら、『旗の文字の決め方』は記録に残っていないので、歴史学者としては“分からない”というのが正直な答えになります。ちょっとガッカリさせてしまったかもしれませんが、結構難しいんですよね・・・。
―好きなお城はありますか?私は鬼ノ城(きのじょう)が好きです。

河合先生、栗山さんの好きなお城はどこかな!?
河合先生:鬼ノ城は誰が支配した、どんなお城ですか?
歴史人Kids:支配していた人物は分からないのですが、素朴なのです。日本版の万里の長城のようなお城です。
栗山英樹さん(以下、栗山さん):どこにあるの?
歴史人Kids:岡山県です!
河合先生:桃太郎の鬼の城と言われているところだよね!とても昔の“古代の城”といわれているのですが、石垣もたくさん残っている立派なお城ですよね。栗山さんはどこのお城が好きですか?

野球のお仕事を通じて、日本各地のお城を訪れたという栗山さん。
栗山さん:僕は今までたくさんのお城に行ったわけではありません。例えば、野球のキャンプが高知であれば高知城など、試合で行った場所にあるお城に訪れてきました。
その中で良かったなと思ったお城は、松本城です。
皆さんからの評価も高いお城なので、「どうしてだろう?」と思って行ってみました。
お城の周りを囲んでいるお濠とのバランスもとても綺麗(きれい)で、「みんながいうように、綺麗だなー!」と感じました。
河合先生:石川氏がつくったお城で、有名なお城ですよね!
栗山さん:河合先生はどこのお城が好きですか?
河合先生:皆さん知らないかもしれませんが・・・滝山城ってわかるかな?東京都八王子市にあるお城です。
“お城”というと石垣のイメージがあるかもしれませんが、石垣のあるお城のほとんどは戦国時代の終わりのものです。
特に関東のお城は、土を掘ったり盛り上げたりして作られていて、“山城”といいます。
その八王子市にある山城・滝山城はすごく綺麗に堀や土塁(どるい)という盛り上がりが残っています。
私は隣町の町田市出身なので、よく訪れていました。
そこは武田信玄が攻めてきたりした場所でもあるので、当時を想像しながら歩いたりしていました。
栗山さん:八王子市にあるんですか!皆さんも行くことができるかもしれないですね。滝山城、ぜひ僕も行ってみたいと思います!
―北条氏康ってどうやって関東を取ったのですか?

歴史人Kidsの質問から、北条氏と関東の人々との繋がりを知ることができたよ!
河合先生:北条氏康は、小田原北条氏という五代続いたうちの三代目の人物ですね。
「どうやって取ったのか」というはとても難しい質問ですが・・・、二代目の氏綱がすごい人物で彼がきちんと路線を引いてくれたからだと思います。
初代・北条早雲って知っていますか?彼は「北条」と名乗ったことはなく、伊勢宗瑞という名前でした。
二代目の氏綱の時から「北条」と名乗り始めました。
氏綱は、どうして北条と名乗ったのか、わかりますか?
歴史人Kids:鎌倉幕府の執権だから!
河合先生:そうそう!伊勢氏は他からやって来た大名。一方、関東で鎌倉幕府の執権の北条氏はとても尊敬されていました。
そのため「北条」と名乗りはじめました。そうすると、“昔からの伝統的な家系の人”という印象を受けるからです。
当時、鎌倉幕府で重要視されていた鶴岡八幡宮を素晴らしい社殿に建て替えたのも、二代目の氏綱でした。
それを建て直ししてくれたので、外から来た人ではあるものの、関東の人の心を掴んでいきました。
そういったことが大きくなったきっかけなのかなと思います。
それと、北条氏は小田原城を居城としていましたよね。
初代・北条早雲(伊勢宗瑞)の時には小田原城を拠点にせず、二代目・氏綱から拠点にしていました。
“強大なお城”、“北条氏という名前”、“鶴岡八幡宮の建て替え”など関東の人々が重要視していることを大切にしたことで、人々から支持を得たのではないでしょうか。
税金も安かったみたいですね。それも大きな理由の一つかなと思います。
栗山さん:戦略でもあったのですね!
―強い戦国大名はたくさんいると思います。逆に、一番弱い大名は誰だったのですか?

“最弱”の戦国武将はどこかな・・・!?
栗山さん:なるほど、弱いか~!
河合先生:誰だろうな~?誰だと思いますか?
歴史人Kids:気になって調べてみたんだけど、分かりませんでした。
河合先生:よく『最弱の小田氏治』なんて言われますが、決してそんなことはないと思います。
栗山さん:一番弱いと名前が残っていない可能性がありますね。でも、いい着眼点!発想がいいね!
河合先生:いいですね~!